「墓」を読んでなんか違うと思って、図書館で探したらこの訳だった。

 

 奥付をみると昭和12年。

 登場人物の口調が、歌舞伎っぽいというか落語っぽいというか、そういうのもご愛敬。

 「田舎ぐらし」(多くの新訳は「田園悲話」)で息子がラストにいうセリフ。

 「おいらがこのうちを出ていたって、引き留めるこたァ出来めえ。いやサ、親風吹かすだけのこたァして呉れちゃァゐめェつてことよ」(p59 「いやさ」って最近ならーーといっても亡くなったけどーー朝香光代くらいしか言わないのではないか?)

 

 既読のものばかりなのだが、秋田訳は本当に染みる。

 

 

 「田舎ぐらし」のラスト、今までぴんとこなかったのだが、秋田訳だとちょっとした違いなのに本当に切ない。

高山訳(岩波版)

 おかみさんは泣き出し、皿のなかにぽたぽたと涙をこぼした。スープをスプーンですくって飲みながら泣きわめいていたので、スープの半分がたはこぼれてしまった。

 「子供を育てるのに、あんなにつらい思いをしたのに」(p69)

青柳訳(新潮版)

 人のいい母親は、皿にうつむきながら泣いていた。そして、スープを匙ですくって飲んでも、半分もこぼしながら、むせび声で言った。

 「子供を育てるために、こんな思いをするなんて!」(p378)

秋田訳(改造社版)

 子煩悩の母親は、皿のうえに顔を伏せるやうにして、泣いてゐた。スープの飲みながらしゃくり泣いてゐるので、匙からスープの半分はこぼれて了つた。

 「お前たちさ育てるために、おっ母ァは死ぬほど苦労をしてきたんだよ」(p59)

 

 まず泣き方や母親の表現が全く違う。

 

 高山訳の「泣きわめく」は、前半の事情を考えると、単に「おかみさん」呼ばわりなのも含め、母親が金銭的なことも悔やんでいるようにも読めてしまい、あまり感情移入できなかった(初めてこの短編を読んだのは、たぶん高山訳)

 青柳訳だと泣き方がおとなしく表現され、<人のいい>母親になっているが、これだと一般論で子育てと関係ない。

 秋田訳は「しゃくり泣いて」(親心を分かってもらえない時の悔しさは、静かな悲しみになると思う。少なくとも私はそう)スープをこぼしている。私だけの感覚かもしれないが、この文章の方が母親が静かに泣いて手が震えているのだなと容易に頭に浮かぶ(他の訳だとスプーンを振り回していそう。特に高山訳)。さらに秋田訳は母親を「子煩悩」としている。

 

 また高山・青柳訳は「子供を育てる」と一般的な言葉だが、秋田訳は「お前」を育てるのに「死ぬほど苦労をした」と直截的で悲痛な言葉になっている。

 

 この短編、子を持つ親からするとこんなにつらい話だったんだと再認識。

 そして、単なるイヤーな話ではない余韻があるように思った。

 

 

「親ごころ」(新訳は「聖水授与者」「聖水係の男」)

河盛訳(岩波版)

 そのとき老人は、ぶるぶる震る手で聖水を雨のように地面にふり撒きながら、「ジャン」と叫んだ。

 (略)

 ージャン?

 (略)

 ージャン?(p63)

太田訳(光文社版)

 老人の手がぶるぶる震えて、聖水が雨のように床に降りそそいだ。とっさに老人は「ジャン?」と叫んだ。

 (略)

 「ジャン?」

 (略)

 「ジャン?」 (p16-18)

秋田訳(改造社版)

 老人は、手がぶるぶる震へるので、聖水を雨のようにこぼしながら、そッと呼んでみた。

 「ジャンぢゃないかえ」

 (略)

 「ジャンだったのかえ」

 (略)

 「ジャンだつたんだねえ」 (p128)

 

 絶対、秋田訳がいい。

 

 モーパッサンは「叫んだ」と書いているのかもしれない。

 でも、前後の文脈では恐る恐る確かめようとしているので、「そっと呼ぶ」ほうがリアル。

 そして息子であると確信に至るまでの表現の変化に、私の涙腺は(出張先で疲れていたのもあったのか)崩壊状態。

 おかしいなあ、何度も読んだのになあと思いながら。

 

 翻訳って面白い。

 

 

秋田滋訳:モーパッサン短編集 初雪  改造社出版、東京、昭和12年