「椿姫」で何度か出てきたので、「椿姫」つながりで購入。
読んでみて意外だったのが、マノンがfemme fataleと私には思えなかったこと。
確かに享楽的(とはいえ、私には楽しいことが好き程度にしか思えなかった p27、77、89)。
しかし、デ・グリュをおそらく本当に愛していて(最初の別れの後、公開学位審査に出席する p69)、金銭に執着がなく(p89)、読書好きで(p212)、ラシーヌのパロディーを言える(p196-197)。
たぶん、そこそこのお育ちのお嬢ちゃんだと思う(天真爛漫という記載もある p223)。
イタリア貴族への振る舞いは品がよろしくないが(p184ー185)。
ある男性宅。
デ・グリュが血相を変えて部屋に入ると、悪びれることなく「あら!あなただったの」「ここで会えると思わなかったわ」。
文脈から”テクニック”で言っているというより、本当に底意なく反応しているようで、この後のデ・グリュの態度に当惑している(p212-213)。
解説によると、見当違いな態度をとり続けるデ・グリュの方が、いわば”オム・ファタル”だと指摘なさっている方がいるという(解説p331)。
私は、シモーヌ・ドサールという方の指摘、「(当時は)平民に生まれた娘にとって修道院と売春のあいだで選択の道は決して広くはなかった」(解説p328)に説得力を感じた。
「椿姫」の作者デュマ・フィスだって母親はgrisetteだった。
当時の女性の立場を考えないと、「都合のいい時ばかり貞淑さがどうのこうのと、いったい私たちはどうやって生きていけばいいのですか?」ではないだろうか。
その一つ。
ラスト近く、売春をした女性たちとマノンはアメリカのnouvelle orleansに流されるのだが、彼女らは植民男性に「妻」としてあてがわれるのである(!!p280)。
ものすごく不愉快で気持ち悪かった(映像で絶対に見たくない)。
てか、デ・グリュの方がいかがなものか。
お父さんのおかげで何度も命拾いしているし(p53,248-262など)、友人に散々助けられている(特にティベルジェ。本当に良い奴)。
なので、「椿姫」のような動かしようのない運命、悲劇という話ではなく、なんというか・・・・まま、これ以上は控える。
本作で面白かったこと。
「一般の人間は6つしか感情を知らない」が(デカルトの情念論が念頭におかれているらしい p119注)、「より高貴な人間」はもっと心の揺れ方が複雑(p118)。
もう、そういうことをいうから大革命が起きるんだって。
ティベルジェとデ・グリュの論争(p132ー133)。
宗教は幸福を後回しにする。あるいは善が幸福をもたらす(p135)。
一方、世俗は最終的に不幸をもたらすとしても、”今”、幸福を味わえればいい。
その際のデ・グリュの台詞。
「幸福は不幸の連続だ」(p132)
なんだかカッコいい!
恋愛は人を哲学者にする(マノンと出会ってデ・グリュは、ホラティウスやウェルギリウスの意味が分かるようになったと言っているp54)。
・・・ただ、意味はちょっとはわからないけど。
ジャンセニズム(神の意志であらゆることは決まっている)を、デ・グリュは言い訳に使う。
神が決めているからこそ<自力で頑張る>ではなく、神が決めているから「人間の意志は弱くても仕方ない」(p136)。
新教徒の方は、これについてどのようなご意見だろう?
お坊ちゃんはこれだから。ねえ。
Prevost AF: Histoire du Chevalier Des Grieux et de Manon Lescaut. 1731 (野崎歓訳 光文社古典新訳文庫、東京、2017)