源氏物語についての古今の言説をまとめたもの。

 

 「紫式部日記」のある箇所が掲載されているが、ちょうど先週か先々週の大河ドラマのシーンに該当。

 敦成親王のお食い初めで藤原公任が「若紫はいるか」と尋ねると式部が「光源氏がいませんよ」と答える。あの時、ロバート秋山演じる実資が酔っぱらって女御の袖の色を数えていたが、あれはコメディ演出でなくて実話(!)。

東の柱もとに、右大将寄りて、衣のつま・袖口数へ給へるけしき、人よりことなり。(p21)

 1000年たっても「様子が変」とかバレちゃって、恥ずかしいぞ、実資。

 

 孝標女や俊成女は大絶賛。

 四辻善成(室町時代の歌人だそう)

君臣の交わり、仁義の道、好色の媒(なかだち)、菩提の縁にいたるまで、これを載せずといふことなし。その趣、荘子の寓言に同じき物か。詞の妖艶、さらに比類なし。(p52-53)

 

 一方、室鳩巣(江戸中期の儒学者らしい)は、当時の後光明天皇が源氏を「淫乱の書に相極まる」と述べたと批判(p57)

 儒学が広まり、源氏は批判されるようになった。

 そりゃそうだろう。

 

 しかし、本居宣長はさすが。

蓮を植ゑてめでむとする人の、濁りてきたなくはあれども、泥水を蓄ふるがごとし。物語に不義なる恋を書けるも、その濁れる泥をめでてにはあらず、もののあはれの花をさかせん料ぞかし。(p76)

 

 近現代に移って、内村鑑三。

(ロック、ルソーなどを持ち上げた後に )「源氏物語」が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか。(略)われわれを女らしき意気地なしになした(略)あのような文学はわれわれの中から根こそぎに絶やしたい(p83) 

 へー、「新エロイーズ」のジュリは許されるんだぁという憎まれ口は別にして、同じようなことを橋純一という学者が述べている(p119)

 教科書に源氏を載せるなと文科省への請願書。時は昭和十三年。

 時局柄か、そういう性格の方なのか。

 

 田山花袋は源氏を評価しつつ、

あんなものを読んだってしょうがない。今の若い人達は皆なそう言う(p91)

 と「翻案風」しか読まれなくなった当時を嘆いている(p93)。

 

 芥川は衝撃的なことに、

僕と交わっている小説家の中ではたった二人ーー谷崎潤一郎と明石敏夫氏(p97)

 しか、実際に源氏読んでいる者はいないと書いている。

 そ、そうかあ・・・(その後の文章はいつもの「作家は儲からない」話なのが可笑しい)

 

 正宗白鳥。

英人によって翻訳された「源氏物語」を、ポツリポツリ読んでいる(略 日本語で)読み通していると云ってもいいのだが(略)気力のない、ぬらぬらとした、ピンと胸に響くところのない、退屈な書物だと思っていた(p102)。

 筋だけ知ってどうするという田山に賛成なので、英訳の方がいいって意味が分からないし、そもそも嫌味ったらしい。

 この一点で正宗のことが嫌いになりました(読んだことないけど。士郎正宗の方がいいな)

 

 ほかに、源氏初現代語訳は与謝野晶子が行ったとか(p84-)、和辻哲郎の「光君」「光源氏」別人説(!)とか(p111)、やっぱり源氏、好きだよね折口信夫(p125-)とか、読み込んでいるだけあって批評が具体的な谷崎とか(p137-)、全体の物語構造は破綻しているが、宇治十帖は別というさすが現代語翻訳者円地文子の指摘とか(p171)、式部の歌って下手かもという馬場あき子の議論(p190-)など、読みどころ満載。

 

 意外なのは湯川秀樹(p150ー)。偉い学者はいろいろ読んでいる。

 

 太宰は相変わらず(p182- 小林秀雄もいつもの小林秀雄・・・)

 

 

 いつか谷崎版にチャレンジしたいなあ。

 

 

編・解説 田村隆:源氏愛憎 源氏物語論アンソロジー 角川ソフィア文庫、東京、2023