表紙にヤスパースがのっていたので、「お?」と衝動買い。

 しかし、この本の素晴らしさは別のところにあった。

 

 キルケゴール思想の簡にして要を得た説明があり(第Ⅱ部)、キルケゴールが美学的(感性的)本と哲学的著作をなぜ併行して執筆したのかや、彼の考える<罪>の意味など、大変に興味深かった。

 

 漠然と思っていたことを、鈴木先生はズバッと指摘なさっていた。

 キルケゴールの思想はキリスト教のありかた、あるいはキリスト教者としてどう生きるか、どう信仰するかが芯にあるので、その文脈を外すと意味が変わってしまうかもしれないこと。

 キルケゴールの影響を受けたヤスパース、ハイデガー、私は知らなかったのだけれどサルトルは、それぞれ宗教性を抜いてキルケゴールの議論を”応用”している(第Ⅰ部)

 そのような姿勢は批判されるべきことではないが、とはいえ、キルケゴールの思想から重要なものが抜け落ちるのではないかと鈴木先生はおっしゃっている(p61、125)

 

 ハイデガーはキルケゴールの思想から不安を引用した。

 ハイデガーのいう不安は、私たちが日常的に生きていく上でどうしても抱えざるを得ないもので、キルケゴールの場合は神から自由であることで却って抱えこんでしまう感情であり、両者は似ているようで違うと思う。

 ハイデガーも神の問題は意識しているはずだと思うが、哲学者である彼はそのことを明記しない。

 

 ヤスパースはもともと精神科医だし、いわば素人哲学者(とはいえハイデルベルグ大学の哲学教授さま)なので、形而上学として神の問題は扱っている。

 しかし、宗教性は排除し、議論もキルケゴールが神と人の間の問題とした自由と決断を、人の生き方の問題にずらしている(と思う)。

 

 サルトルは、キルケゴールが”まだ自由がない(無)段階で人は不安に直面する(この考え方、正直意味が分からない)”と論じたことから、無に注目した。

 本来、有しかないのっぺりとしたこの世界に無を導入するのは人だけであり、有か無かというところから人の自由は生じると述べている(らしい)。

 この考え方は、ハイデガーやヤスパースと比べて、キルケゴール思想の痕跡はほとんど無い(鈴木先生は、サルトルがキルケゴールをあまり理解していなかったのではないかとお書きになっている p126)

 

 ヤスパース贔屓の私としては、キルケゴールにもっとも忠実(理論にでなく態度に)なのは、やはりヤスパースだと思う。

 

 

 本書の白眉は第Ⅲ部。

 ヴィトゲンシュタインとキルケゴール!

 言葉で世界は写像される(ので論理的命題、言語に乗っからない哲学的諸問題は疑似問題である)と素っ気ないことを書いたあのヴィトゲンシュタインと、神、罪、不安を論じたキルケゴールは、大変に深い関係を持っているという議論。

 

 メンタルヘルス業界では、ヴィトゲンシュタインを、かつては統合失調症圏、現在は発達障害圏の天才としているが、鈴木先生のご著書はこれらの議論にある程度の訂正を迫るものだと個人的には思う。

 

 

 というわけで、読み終わるのに時間がかかるかなと思っていたら、あっという間だった。

 無茶苦茶楽しかった。

 あ、なるほどーと思ったのがキルケゴールの「仮想的」がヘーゲルだったこと。

 ヤスパースもそうだったから。

 

 

 

鈴木祐丞:<実存哲学>の系譜 講談社メチエ、東京、2022