最近、立て続けにヘビーな本を読んでいたので息抜き。
無茶苦茶面白かった。
徳富蘆花・蘇峰の遠戚で、横井小楠を大叔父にもつ夫に嫁いだ、細川家家臣原家の娘玉子。
彼女が女子美を設立。
島崎藤村が世に出るきっかけを作り(p228)、先祖は女子学院創立と絡んでいる(p248)。
女子美術大学HPより
西洋医学の名門、佐倉順天堂医院第二代当主佐藤尚中の娘志津。
彼女が経済的危機に陥った女子美を救った。
佐倉市HPより
医師にとって大変に重要な解剖図を描き、順天堂で学ぶ若者に貢献した浅井忠の縁で、2人は出逢う。
浅井忠(Wikiより)
留学中に夏目漱石と出逢い、彼の作品の装丁と挿画を担当した(p246)。
浅井の代表作「収穫」 佐倉がイメージらしい
志津の夫が、順天堂三代目当主佐藤進。
大隈重信の足を治療し(p207)、留学中に普仏戦争に参加(p206)。モーパッサンとすれ違っているかも!
知らなかったのだが、佐倉藩主は堀田家で、堀田正睦は失脚後に佐倉に戻っていた(彼の政策「一術免許の制」が面白い。当主は何か免許を持たないと家禄を減額された。このため佐倉は学問武芸が栄えた。p14)。
そんな土地柄だから、順天堂の医師は会津藩の負傷兵を治療していた(p137)。
私のご先祖さま(薩摩)たちがまたご迷惑を・・・・
佐藤進。佐倉市HPより(常陸大宮出身p126)
女子美術大が素晴らしいのが、その美術観。
絵画はもとより、音楽、彫刻、詩、小説、演劇、建築、裁縫、手芸、料理、”制作”すべてが美術というアリストテレスな考え方。
そして、美術を学ぶことは女性の自立につながると考えた(p233)。
だから、女子美は単なる”芸術大学”ではない。
しかも佐藤家の経済的援助があったので、順天堂大学のいわば”姉妹校”(p305)。
本書で面白いのが、表に出てこない”もう一つの”歴史。
進の父、尚中は東大医学部の前身を作った。
しかし、後から着任したお雇外国人達に追い出されて順天堂を作った(p318)。
つまり、東大医学部の”真の”精神は、順天堂大学にこそ受け継がれているのかもしれない。
浅井は工部省工学美術学校出身。洋画の牙城。
対抗して設立された東京美術学校(現・東京藝術大学)には洋画科がなかった(p191 ちなみに工学美術学校と違って1946年まで女子は入学できなかった)。
日本の洋画受容の混乱、日本画との対立も垣間見ることができる。
話は変わるが、男女別学校を廃止する流れがある。
X女子高校(大学)に男子が入れないのはおかしいというロジックらしい。
もしX女子高(大)の学区に男子が入れる同レベルの高校(大学)がないのなら、その地域の男子に学ぶ機会が与えられず、確かに不平等である。
しかし、学区内に同程度のY男子高や共学のZ高(大)があるのなら学ぶ機会に差はない。
この種の主張で疑問なのが、学ぶ機会以外の「何を」平等になさりたいかということである(今話題のスポーツも同じ)。
平等は大事だが「何を」「どんな理由で」を欠くと、逆に機会を奪うことになりかねない(この点が明確で平等だと思うのが、パラリンピックの存在)。
流行りの(?)多様性という意味なら、共学、男子校、女子校があるのは文字通り”多様”ではないのか。
こういうことを書くと、平等や多様性を理解していない老害といわれてしまうのかもしれないけれど。
山﨑光夫:二つの星 横井玉子と佐藤志津 女子美術大学建学への道 講談社、東京、2010