やっぱり面白かった。メモ。
デカルト:
「われ思う、故にわれあり」は、本来の順番ではない。
原文は「われあり、われ思う(間に)」(p17)。
渦動説:微細な物質がぶつかり渦を形成し運動する(p53)。
スピノザ:
完全にメカニックで奥行きがない世界観(p52)。
ライプニッツ:
モナドをもってきて”真理は隠れている(一挙にはわからない)”とした(p70)。
ロック:
世界は粒子で構成され、それを私たちは知覚している(p91-92)。
バークリ:
「存在するとは知覚されること」:知覚できないものが心の外にあることを認めると、ものは実在についての疑念を生む。それは神のような崇高な存在への疑いにもつながることを懸念して主張した(p91 ・・・今一、納得できず)。
言語は観念伝達だけでなく、情念や行動を生じさせる(p113-114 言語行為論!)。
トーマス・リード:
「知識に絶対的な確実性はない」:懐疑主義でなく可謬主義(p96 訂正可能性の哲学!)。
カント:
クリノ―の意味は”分ける”(p126)。
経験を突き抜ける理性のあり方を”分けた”
=形而上学が可能か不可能か”分けた”
結論:”認識”では不可能(「物自体」の世界を”思考”はできる p128)。
理性にブレーキをかけたことが重要(p156)。
* * *
道徳感情のachtungは”注目”という意味もある(p161)。
<各人の格率が普遍的であるように行動せよ>と<人間性を手段として扱うな>の整合性:カントにとって普遍的な人間性は平等。相手の生の目的を妨げず(手段にしない)、相互に平等なのが道徳的(p164)。
理性を実践的に用いて道徳を意識することで”私は自由である(あらざるをえない)”と感じるという理路で超越論的自由の「実在性」を論じた(p171)。
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判断力批判は”生命”と”個性”を付け加え、”概念”と”感性的直観の多様”を引いたもの(p177 「悟性と構想力の自由な戯れ」)。
概念を介さず”しっくりする”主観的(美の)感覚を「合目的性」とした(p181)。
フィヒテ:
カント:「私」を「統覚」とした → 意識する私と意識される私の無限後退に。
フィヒテ:「自我」を”私が存在できる働き”とした(「事行」p209 観察自我と対象自我の2項でなく、その関係性に注目した)。
シェリング:
自然から出発し自我へ至る「自然哲学」を展開(「同一哲学」p215 自然はカント的”現象”でなく、それ自身で実在するもの。ヘーゲルは彼の影響を受け”自然には概念に収まらない何かがある”と考えたp242)。
ヘーゲル:
「精神現象学」は自分の思想の準備段階(先行思想の批判)の著作なので、ヘーゲルが正しいと思っていることは書かれていない(!p217)。
ヘーゲルが批判したもの:近代的合理性(直観や感情を重視した!p239)。
カントは偉大だなあの一言。
斎藤哲也編:哲学史入門 Ⅱ、NHK出版新書、東京、2024