praxisやactioという言葉は法律、宗教用語だった(p103)

 

 行為praxis(と選択)には目的telosはある=善。

 その最も頂点にあるのが幸福eudaimonia(p106)

 

 ergonに「作品」という意味はなく、本来は「働き」である(p109)

 働きergonこそ目的であり、働きとは<働きのうちにあるen-ergeia=energeia>こと(p111)これは「自らを目的において所有する」という意味でもある。

 

 ある能力の(目的=)結果は、外にある。たとえば建築術で家がたつ。

 言い換えると、制作poiesisの場合、働きergon=<働きのうちにあること>energeiaは作品のうちにある。建築家の働きは、制作品の中にある。 

 

 別の能力では、目的は能力を使用することである。たとえば<視力>は<見る>活動である。

 この場合、energeiaは働いている人間のうちにある。

 これが行為praxisの定義となる(p111-112)

(アリストテレスにとってenergeiaがどこにあるのかが問題だった)

 

 制作する職人は、働いていないargon時も、彼らの<働きのうちにあること>は外在化されているので、職人であり続けられる。

 ところが(単に)行為する人は働いてないことはなく、(常に)行為しているいことになる。

(行為の定義が”働きのうちにあることenergeiaがその人のうちにある”なので、働いて行為していないと行為している人でなくなる。なんだかトートロジカル。以上の議論は「ニコマコス」「形而上学」p112-113) 

 

 さらに「技芸technaiはものの生成にかかわる・・・poiesisとpraxisは区別されるのだから、technaiは必然的にpoiesisに属する」とアリストテレスは述べた(p135)

(制作ではenergeiaが外在化し、作品として生み出される。したがって、技芸techaniは制作poiesisに属する。一方、energeiaが外になくその人のうちにあり、モノとして残さない行為praxisに技芸は属さない)

 

 アリストテレスは、その後、行為の目的(~のために)と手段(なされるもの)を分けて論じるようになる(p114)

 

 

(つづく)

 

 

 アガンベンは、アーレント批判としてアリストテレスの議論を再度、検討してpraxis,poiesis,ergon,energeiaの関係を整理している。

 まとめると1)制作:目的としていたモノが結果として外に現れる。2)行為:行為自体が目的。3)技芸はモノを生み出すことだから制作に属する。

 整理すると当たり前なのだが、ergonが一般に「作品」と訳されていることからややこしくなったとアガンベンは指摘している(らしい)

 キモは普通”現実態”と訳されるenergeia(実際に本書第三章でそう訳される)が<働きergonのうちにあること>ともいえる点なのと、目的と目的に向かって使う手段をアリストレスが曖昧に論じてしまっていた点(だと思う)

 しかし、後にアリストレスが目的と手段を区別しはじめる。

 で、続く。