プラトン:神は目的を遂行しているというより遊んでいる。
遊びpaidiaは手段と目的を中立にする領域である(p115)。
神学(トマス・アクィナス):行為者は目的のため/善のために行為する。
しかし、目的のない行為もある。
(髭をなぜるなど p120-121)
カント:目的は意志との関係においてのみ目的である(p125)。
「究極目的としての人間」「究極目的のうちに道徳法則をみいだす」(p128)
イェーリング:
原因なしの意志の運動がないように、目的なしの意志の運動はない。
「意志することと、ある目標に到達するために意志することに違いはない。目標のない行為はないから」
(目的のない意志はないという発想。行為と意志の同一化(p129))
意志こそが真の創造力で、創造力のばねが目的(p130)。
「『~だからquia』(原因、理由)は自然、『~のためにut』(目的)は人間である」(p131)。
人間を目的自体に構成することで、意志ー行為ー引責可能性に組み込んだ(p130)。
デカルトが認識主体を考える前に(ギリシャ哲学から神学で)意志的行為の有責としての主体が形成されていたといえる(! p131)。
インド:行為とその結果は存在するが、行為主体(真我)はない。
<行為の有責者としての主体>なるものは、想像による擬制ともいえる(p132)。
(アリストテレスは行為の後に何も残らないとしたが)ストア派はプラクティケーとしての技芸に<踊り>を提示した(p134)。
いわゆる<行為遂行的>な技芸は、目的から解放されている(p135)。
(アリストテレスにとって行為は外在化される作品がないので技芸は属さないとした。しかしストア派は”後に残らない技芸”、たとえば踊りがあることを指摘した。そして、これはpoiesisではなく、やはりpraxisだと考えた)
ベンヤミン:手段と目的の連関を壊そうとした。
純粋な手段=純粋な暴力(p136-138)。
(目的がなくても構わない手段、目的が手段そのものでもあり、目的から解放されているのが暴力)
しかし、目的から解放された純粋な手段を(ストア派の議論のように)身ぶりに戻すことで(p139)、行為praxisは―人間の生は―actio(もとは裁判の意味)でなく、身ぶりと言葉からなる秘儀となる(p140)。
目的に向かう手段である制作と、目的を自身のうちに含む行為の中間に、振る舞いgerereという概念が指摘された(p141)。
振る舞い、身ぶりgerereは、責任を負う行為あるいは行為の結果と関係がない。
つまり主体を規定できない(p142-143)。
さらにgerereは制止、自制、つまり行為を制止することも意味した(p142-143)。
以上から・・・
<働かないでいること>が、目的と手段、責任と罪から解放された空間であり、純粋な手段の政治になる(らしい p143-144)。
キリスト教神学から近代哲学で、行為、意志、手段、目的の関係が<行為とは意志をもって(ある手段を使って)目的に向かうこと>と明確に概念化され、目的のない単なる因果は自然の領域のものされた。
この考え方は、人が行為する際は主体として意志をもつので、必ず行為の責任を問われることを意味する。
アガンベンは別の発想がありえるのではと示唆する。
インドでは行為に主体があると考えなかった。
ベンヤミンは目的と関係ない<純粋な手段>に暴力をみて、ストア派では同じものに踊りや身ぶりをみた。
目的をもって意志し手段をもって行為することで、主体性、責任や罪・罰、暴力性がまとわりつく。
そうではない発想はないのか。
たとえば、身ぶりや言葉の秘儀、働かない(行為しない)こと・・・
・・・という、無為desouvreについて考えさせられる議論(たぶん)。
読み疲れた。
個人的にはプラトンの議論が面白そう。
モンスターエンジンの漫才っぽいけど。
アガンベン. G「カルマン」 上村忠男訳、みすず書房、東京、2022.
Agamben. G: Karman. Bollati Boringhieri, Torino, 2017.