クリーメン:犯罪、カルマン:行為、仕事(p41-45)

 

 ギリシャ時代は、罪を犯すのは無知だから、という発想だった(p54)

 (例外的に?)アリストテレスは「選択する行為」(語源は「先行する熟慮」p61)概念を作り上げた。

 彼のデュナミスとエネルゲイア(可能態と現実態)は「医者は治療する能力をもつ」が「実際に治療することも、しないこともできる」ことを説明する。

 つまり「望むときに現実態に移行する」(p76-77)

 言い換えれば可能態と現実態に接ぎ木があり、それは<意志>といえる(p89)

 さらにアリストテレスは行為の補完要素として性格(=内面)にも言及した(p66)。 

 

 行為に責任が伴うには、意志が必要である。

 ギリシャ時代に意志はなかったが(罪は無知で起こす)、キリスト教神学で発展する(p49-53)(後にヘーゲルは、責任は自ら行為すること、と主張する p59)

 

 神学によって「なしうる」から「欲する」(p74)、自由意志(自分に対して権能をもつ、私たちに依存しているもの)概念が形成される(p79-80)

 

 アウグスティヌス:意志の自由は正しく行為すること。

 アンセルムス:自由意志は罪を犯したり犯さなかったりする力ではない(p84)。

 スコトゥス:行為を自然によると意志によるの2つに分ける。可能態を意志した(p95)。 

 

 意志が登場したことで「私はできない」(無能力)は「私はしたくない」(意志)に変容(p92)

 

 ギリシャ時代:神は本性/必然として自然を創造した(そうでないと、神の気まぐれである物とない物がでてくる)

 神学:ギリシャ時代と異なり自然と意志を切り離した。神は自由/意志して自然を作り、被造物である人間も意志をもった(p94-95)

 意志がある=自由に選択できるので、行為には責任が必要になる(p96)

 

 ギリシャから近代にかけて、能力から意志へ、「できる」から「したい」「しなければならない」へ変容した(p83)。

 

 

 ギリシャ時代は無知ゆえに罪を犯したと考えた。

 だがアリストテレスの可能態・現実態概念と性格概念は、外面的形式的な行為と結果でなく、内面の<意志(自由、選択)>を準備した。

 次の時代のキリスト教神学では神の意志を考えることを通じて、人間にも意志(自由、選択)があると発想した。

 意志があれば、何かを敢えてすることも敢えてしないこともありえる。

 そうなると無知ではなく、意志をもって敢えて罪を犯すという理路が生じる。

 つまり単に行為するではなく<責任をもって行為する>という発想が生まれることになる。