アガンベンの著作は、話題が行ったり来たりするので、個人的には読みにくいと感じる。
なのでメモ。
causa, clupaには語源がなく、もともと裁判用語だった(p3-4)。
clupaは<責任を負う>と<責任の制限>の意味があった
=制限をこえれば責任を負う(p10-11)。
式文では、XをすればYになるという<行為と結果>の形式で、罪=過失について記されておらず、罰=制裁とその程度が規定されているだけだった(p15-16)。
そもそも罪に関する言葉がなかった(p19 神との関係が指摘 p20。神のもとでは人は罪を犯していることがデフォルトだから?)。
シュミット, C:罰は罪に先行。
因果ではなく(たとえば銃から弾丸がでた)悪しき意志が重要(p17)。
法の本質は制裁=罰にある。罰があるから罪がある(p22 罪があるから罰があるではない)。
法がなければ罪を認識しない(p22-23)。
罪概念が生まれるには、行為から内面(主体、意志)への移行が必要(p16)。
サンクトゥス:「市壁」から「法律で規定されている」の意味へ
サケル:「領域」
サンクトゥム:「不可侵なところ」から「制裁=罰で守られているところ」へ
(p28)
法を犯したものは追放され(=サケル)、罰せられるない。
しかし、サケルは殺されても、殺した者は罪にならない(サケルは罰の外にいるので、それをどう扱っても罰の対象外になる?p26-27)。
違法とは法の<外>の意味(p30)。
行為の結果だった制裁=罰は、法律の不可侵性の根拠、法律からの逸脱を排斥するものになる(p31)。
法は暴力と正義を結びつけた(p31)。
法の本質は合法的暴力の生産(p36)。
制裁=罰が犯罪を産む(p34)。
「盗んではならない」には「法で処罰すべき」が含意されている(p35 ~だから罰する、ではなく、罰するから~をしてはならない)。
法的に義務付けられているのは(正しい)行動ではなく制裁=罰(p36)。
制裁=罰を欠いた法があるのではないか・・・・(p38)
以上までは第一章。
まず罪の概念はなかった。
当初、行為とその結果の規定だけで、結果には制裁=罰が書き込まれていた。
そのため罰=制裁を与えることが、法の成立と維持では重要な位置を占めた。
法は制裁=正当化された暴力を与える装置になる。
さらに罪ではなく罰が先なので、罰の中に罪が書き込まれているという理屈になる。
レトリカルにいえば、罰があるから罪=違法=犯罪があることになる。