土曜日、無理やり時間を作って成城大学へ。

 親戚が昔通っていた大学だが、はじめての成城学園。

 さすが小じゃれた街並み。

 私のような田舎者にはまぶしすぎた。

 

 

 今後、論文化なさる内容があると思うので、それぞれのご発表について詳しくは控える。

 

 アンリの内在性概念やキリスト教への近接性は、基本的に二者関係で成立するメンタルヘルスの議論にもっていくのは難しいと常々思っていたが、いっそう確信。

 

 面白かったのはバディウとアンリの違いと、ベルクソンとアンリの違い。

 

 いつも思うは、メンタルヘルス以外の学問をご専門になさっている方は精神医学と精神分析との違いを(あまり)ご存じない(か、混交なさっている)ということ。

 ましてや精神病理学においてをや。

 

 

 精神分析に理論はあるかという議論があった。

 基本的に精神分析は心因性の精神的不調の機序(精神病理)と治療技法の集合体で、それを応用したもの(自身の精神病理の展開可能性を確認するようなもの)をフロイトはたまーに書いているが、これはあくまでおまけ(だと思う)

 フロイト自身、議論が変遷し、クラインやウイニコット、ビオンで言っていることが違うし、「理論があるか」といわれると困るのではないか。

 あるドイツの精神療法家が「精神分析に理論がない」と哲学に向かったり、インド思想を学んだりしているので、「ないといえば無い」のかもしれない。

 

 

 ところでフランス思想系の方は、ラカン(とその後継者)で精神分析をお考えになるようだが、精神分析の中でラカンはかなり特殊なのでお気を付けたほうがいいのではないかと余計なことを考えたりしていた。

 

 それから、死の欲動の話になったのだが、フロイトの死の欲動には元ネタがあるわけで、哲学系の方は普段の議論ではヘーゲルが、デカルトが、カントが・・・と議論を遡行なさるのに、精神分析でなぜ同じ方法をお取りにならないのかなと、これもまた疑問だった。

 専門外なので黙っていたけど。

 

 

 宿題。

 リクールとヤスパースの関係については、やはりまだ釈然としない。

 

 アンリの無意識批判は面白そう。

 現象学が「知覚/視覚」モデルだという批判は、私が考えたいこと。

 議論になっていた表象か情動かは、二者択一ではないと思う。

 これは臨床をやっていないとピンとこないかも。

 

 それからアンリの議論だと主体/自我(というか内在)は「どのように誕生するか」という問題提起も面白そう。

 でも、臨床にはつながらないだろうなあ。

 それにアンリの本、一冊だけ読んだことがあるけれど(というか途中までなので実質積読)、とにかく難しいし。

 

 

 それはともかくヒントをいただいたようで、愉しい一日だった。

 

 お土産にどこぞのしゃれたお菓子屋さんでクッキーを買ったら、「さすが成城、おいしい!」「箱がおしゃれ、さすが成城!」(ここまで言うと若干嫌味。というか嫌味も混じっているけど)と田舎者丸出しで皆でいただきました。

 よかったよかった。

 

 

 

日本ミシェル・アンリ哲学会第16回研究大会 2024年6月1日 於・成城大学