第二部後半から。

 

 東さんは「人工知能民主主義」として、データ至上主義の民主制のありようを批判する(第六章、第七章)。

 

 この箇所で面白かったのは以下。

 「政治家は(新制度に対して)難癖をつける人たち」(p220)という少し乱暴だが、的を射ていると思える”定義”。

 もちろん東さんに政治家を悪しざまにいう意図はなく(少しはあるかも)、変化に対して「ちょっと待て」と熟考を求めるのが政治家だとおっしゃりたいのだと思う。

 だから東さんにとって「政治は訂正の場」(p222)

 もう一つ面白かったのが、計測可能な方法で民主主義を設計すると主体性が失われるという議論(p251-259)

 

 東さんは、現在提示されている人工知能民主主義が、個人の雑多な属性データを集計し、その最適解で統治する一種の全体主義だと批判なさる。

 その通りだと思う。

 だとしたら、私達はどうすればいいか。

 

 トクヴィルとルソーの書簡(第九章)を参照しながら訂正可能性の有効性を提示し、本書は幕を閉じる。

 

 

 

 

 以下は読み返した時用の、私向けメモ。

 

 

 バフチン

 「地下室の手記」からポリフォニーを発想したのなら(p312)、「私」が過剰な強さで立ち上がっているからこそ起きているのがポリフォニーではないか。

 そしてそれは実質モノフォニーではないのか。

 バフチンは積読だから宿題。

 というか、ブランショが出てこないのが意外だった。

 

 

 トクヴィル

 当時の北米は小集団が形成されて民主主義がうまく機能した(p334)

 これは内田樹先生もどこかで紹介なさっていた。

 東さんは、出入りもメンバー構成も自由な集団が形成されるために、逆説的にも自立心の強さが必要と指摘なさっていて、新しい視点だと思う。

 話は飛ぶ。

 中学生の時に読んだ「アルデンヌの森の戦い」の戦記。

 戦争で”全滅”の定義は部隊の5-6割が戦闘不能になること(たしか)。

 残りの兵士たちは負傷、戦意喪失、指揮系統崩壊で戦力にならず、戦場から離脱してしまっていることも多い。

 ところが当時のアメリカ軍は、奇襲で部隊がバラバラになった後も少数で戦場を歩き回り、臨時の混成部隊をあちこちで勝手に作り始めた(確かにアメリカの戦争映画でよく見る。一人でも歩き回って誰かと会うと「俺はA中隊だ。お前は」「B中隊だ」「昨晩は隣で降下したんだな。よろしく」と合流していく)。 

 こうしてドイツ軍は、壊滅状態にしたはずのアメリカ軍が後方で抵抗するのを相手にしなくてはならなくなった(一般にドイツ軍の敗因は燃料不足、渋滞の頻発、制空権がなかったこととされる)

 戦記でアメリカ人の自立心の強さ、国民性を知ることができて、大変に印象に残っている。 

 

 

 私も仕事で使う統計

 人工知能民主主義の提唱者は経済学者さんだったりするので、統計を使っているはず。

 東さんは外れ値についてさらっと書いていらっしゃるが(p232)、重要な問題だと思う。

 人の特異性や一回性が外れ値でこそ表現される可能性はないのか(ヤスパースは<例外者>と概念化している)

 現に固有名は定義に還元できない(属性に分解できない)

 そもそも外れ値は(本当に外れ値かを検定した後)、一般にノイズとしてデータから取り除かれる(ことが多い)

 そうしないと全体の傾向が分からなくなるからである。

 これはメンタルの問題で統計を取る時によく問題になる(ことが多い)

 

 人工知能民主主義推進派の方々は、外れ値をどう扱うのだろう。

 予想される反論は「ビッグデータだから、定義上少数に過ぎない外れ値は除外しても全体の解析に影響しない」

 

 いやいや。治療などの限定的な話じゃない。

 私達の生き方全般に関わることである。

 

 私は「冗談じゃない」と思う。

 何しろ老害おやじだから。

 

 

東浩紀「訂正可能性の哲学」ゲンロン、東京、2023