私にとって人文系の本を読む喜びの一つは、様々な知を得られることだ。

 本書もそう。

 

 もう一つ。

 人文知は、医学でも数学でもなんでもいいが理系の暴走に待ったをかけてほしい。

 本書は待ったをかけてくれる稀有な書物(COVID禍では人文知に失望しただけに・・・)

 

 

 プラトンから始まる家族の軽視を、本質や真理などの固定的永続的なものではなく、変わらない”何か”で繋いでいくヴィトゲンシュタインの家族的類似で見直す(第一部第一章)。

 そしてヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論から、クリプキが論じた一般名と固有名の問題に議論は移る。

 一般名は定義の束で把握できるが、その定義を変えられない。

 定義が変わり位置づけが変化すると、別の名を指示することになってしまう。

 一方、固有名は定義の束では把握できない(「伝統」で支えられているp73)

 だからこそ「実はXXだった」と定義が追加されて変わっても、固有名も位置づけも変化しない(「実はアリストテレスは実在しなかった」という発見があったとしても「アリストテレス(が書いたとされる内容の哲学史上の)位置づけ」はかわらないp66-74 注のフレーゲの話も面白いp69 他にもアーレントが重要な参照枠になる)(第二章~)。

 

 

 これらの議論を踏まえ、東さんは重要な概念として訂正可能性を提案する。

 誤読している可能性を恐れずに私なりにまとめると以下。

 

 私達はあるルールのもとで何かをプレイしている。

 ルールはプレイの外部にある。

 しかし、外にある<から>触れてはならないわけではない。

 適切なプレイが可能になるために、プレイヤーである私達はルールを変更できる、というかするべきである。

 もちろんゲームの目標を変えるなどの大きな変更はできない。”何か”を変えないまま、細かな変更を時間をかけて行っていく(これは保守の発想で、革新の場合はルールを一挙に変更しようとする)


 

 第二部からルソーが本格的に論じられる。  

 この箇所で私なりに”おいしかった”点はデリダに関する注(p197)、ホッブス・ロックとルソーの考え方の違い(p200-201)。

 第二部のキモであり面白かったのは、東さんによる訂正可能性概念の民主主義への適用に関するご議論。

 また私にとって第二部の読みどころは、東さんがルソーを、ヤスパース的にいえばしっかりと<我が物>にしており、ルソーに憑依したように没入して彼の思想の捻じれを紐解いていくスリリングさだった。

 

 現代は大きな物語が終焉したとよく言われるが、東さんはデータ至上主義という新しい物語が現れていると指摘する(第五章)。

 さらにその源流をルソーの一般意思にみる(第六章~)。

 

 新たな搾取関係のご指摘もなるほどと思う(これは東さんのというより、引用されたズボフの指摘p247-251)

 データ至上主義の資本社会では、私達は搾取される労働者でない。

 昔ながらの比喩なら、資本家は広告会社、労働者がプラットフォーム企業で、私達はなんと羊毛を刈られる羊であるにすぎない(!p251)

 

 話を戻すとデータ至上主義は、楽観的すぎる「人工知能資本主義」を生み出した。

 

 

 それはどのような問題があるのかが、後半。

 

 

東浩紀「訂正可能性の哲学」 ゲンロン、東京、2023