仕事に使おうと思って再読。

 冒頭でナショナル・アイデンティティの話題になり、政治思想の本?思ってたのと違う?と一瞬考えたが、読み進めると思っていたような本だった。

 

 

 アイデンティティは空虚な観念である。なんでもごた混ぜに詰み込める(p80)

 

 (本来の)アイデンティティは属性、データのようなものではない(p52,73)

 語ることができない(p51)配置(p52)、あるいは点であり次元をもたない(p71)空虚(p62)。点から迷走する軌道が「同じ」を作る(p71)

 

 とはいえ、「同じ」は「A=A」のような自同律ではない。

 私は同一化という過程で「私」とアイデンティティとなるものを語り、作り上げる(p56)

 私が私にidea形相を与える。私が自らに同一化する(p57)

 

 「汝がそうであるところのものになれ」は、汝が「汝がそうであるところのもの」で<ない>ため、「そうであるところのもの」にならなくてはならない。

 そして「そうであるところのもの」は誰かに与えらえるのではない。

 自分で生成する、生み出すしかない(p58)

 

 「自らがそうであるところのもの」(たとえばスイス人にとってのとんがり帽子p59)は私が生み出したのではなく、すでに、そうであった何かである。

 そのような何かを所有することがアイデンティティでもない(p60)

 

 アイデンティティが現実のものになるには、それ自身で同一になりえないものへと向かう運動として、である。

 だからアイデンティティは即自的ではなく対自的である(p60)

 自分ではないものを経て自分に到来する(p61)

 

 アイデンティティは固有性ではない。

 固有le propreは所有proprieteである。

 アイデンティティは所有ではなく存在の作用である(p63)

 

 アイデンティティIdentitieはイデムidem(同じ性)である。

 idemは絶対的absoluで、それは分離されたものab-solutumである(p63)

 つまり、同じものに戻らない同じ性で、単なる再開や繰り返しではない。

 絶対的に異なるものへの無限の回帰、差異が、同じ性を生む(p64)

 

 

 ここから先が政治論。

 人民peupleは一般的なものではなく特異的singulariteなものである(p88)

 そして純粋な個体はなく存在は複数で始まる(共存在、共出現!p90)

 人民は根源的なもの、起源ではないし、統一体でもない(p94-95)

 人民は分有を創り出す。それが「私たち」というあり方(p92-93)

 そして、人民がアイデンティティである(p98)

 

 ところで進歩的論者にもてはやされる「多文化」なるものは単一文化のパッチワークに過ぎない。

 本来、多文化性が各文化の条件である(p100)

 多文化性で論じられているのは文化でなく、実際はハビトゥス、ネーション。

 そしてネーションのアイデンティティは、人民としてのアイデンティティが自ら生み出すものなのに対し、特定可能である(p102)

 だが本来のアイデンティティは知の対象として特定できない行為、緊張(p109)

 

 今、私たちがなすべきことは、人民・文化としてのアイデンティティと、ネーション・政治としてのアイデンティティをずらすこと(p112)

 

 そうであるなら主体とアイデンティティの関係は?

 特定可能なアイデンティティを絶えず乗り越える一貫した運動(p117)

 主体のアイデンティティは常に自らの内奥にあり、どのように自ら見出すのか誰にもわからない(p118)。 

 

 

 アイデンティティは固定的でないし、可塑的でもない。

 準ー安定的で、捉えどころがないものなのである(p38-39)

 

 つまり、内奥から自ずと生成され、所有(固有)ではなく行為や関係といった測定不可能な特異性、とまとめられるか。

 

 

 愛国的運動でアイデンティティという言葉が安易に使われている状況へのナンシーの警告。

 

 

Nancy J=L:Identite Fragmnets, franchises. Galilee, Paris, 2010

伊藤潤一郎訳:アイデンティティ 断片、率直さ 水声社、東京、2020