ずいぶん前に読んだのだが、仕事に使えないかと再読。
こんな内容だっけと驚く。
第一章
ルコントの映画を例に、精神分析的会話でどのような親密性が形成されるかを論じる。
性的なものが、性的ではないものの側に出現することに耐えなければならない(p57)
精神分析は、性的語りや感情を性的関係を結ばずに扱い続けなければならない。
精神分析的訓練を受けたといってよいルコントの映画の主人公たちは、脱ー性化(非人称的 p61)した親密さを形成できるかもしれない。
しかし、精神分析の形式を引きずって、閉じた形にしかならないだろう(p61)。
本章で出てきたW.ジェイムズの「ジャングルのけもの」は面白そう。探そうと思う。
第二章
男性同性愛に関するかなり過激な内容。
死の恐怖が(略)性的快楽を単純に強めることは明確であろう(p75)
フロイトの”例の議論”はさらっと触れるに留め、具体例として出すのがベルサーニの真骨頂。
人間にはそういう側面があるのかと驚くと同時に興味深い。
ある行為は完全に非人称的親密さを表す(要するに相手が誰が誰だか分からない行為 p77-81)。
しかし、この行為は凡庸な男性性に回収されてしまう(p92)。
驚くのが自己犠牲という意味でカトリック神秘主義との類似性が指摘される(p93-96)。
さらにこのように形成される親密さは、結局、自我の膨張に過ぎないのかもしれないという結論に至る(p100)。
第三章
猟奇的犯罪と大義なき戦争が例示される。
強烈なナルシシズムの快楽は、満足した攻撃性を性愛化してしまう(p115)
ナルシシズムは攻撃性を含んでいる。
何しろ「自分が一番」なのだから、理屈では他者の排除に向かうことになる(p150、196)。
なるほどなあという指摘。
自我とは、世界を支配しようという究極的には自己破壊的な意志の行為体であるだけでなく、主体の自己保存の行為体でもある(p118)
超自我は私たちの中にある攻撃性(死の欲動)の「道徳化」した形態(p120)。
一方、道徳的な悪とは私たちの中にある攻撃性が対象に映し出されたもの。
だとすると「道徳的である」ことは、
それ自身への鏡像に対する殺人衝動(p121)
または
自己浄化(p121)
になってしまう。
超自我は法に基づいて”禁止する”機能というより、”内在する法(自身の攻撃性が根拠になっている禁止)の侵犯(攻撃)を命じる”機能と考えることもできる(p121)。
まるで<タコが自分の足を食べている>ような倒錯した状態。
脱ー性でもなく、性そのものでもなく、暴力でもなく、つまり既存の意味のナルシシズムを持ち出さずに親密さを形成することができるか。
ベルサー二は「パイドロス」を例にして、ある概念を提出する。
他者の中に自分の似姿ではなく、理念的でかつ単独性をもった姿をみること、相手に潜在性をみること(p143-145)。
フィリップスはそれを「無意味な意味をもつ言葉」(p171)と評する。
確かに形容矛盾の香りがするし、言葉遊びのようにも思える。
フィリップスは精神分析家らしく「母」を持ち出すが、それだとベルサーニの過激な主張が<普通の精神分析の議論>に収まってしまう(p170)。
自己愛を排して、他者と親密さを形作ることの、なんと難しいことよ。
レオ・ベルサーニ、アダム・フィリップス「親密性」 檜垣立哉、宮澤由香訳 洛北出版、京都、2012
Bersani L and Phillips A:Intimacies. UCP, Chicago, 2008