自立する本の後は、支えないと倒れる本。
ベルクソン自身の持続の表現(「時間と自由」からの引用なので、孫引き)
純粋持続は、質的変化が次々に起こること以外のものではないはずであり、その変化は高いに溶け合い、浸透しあい、正確な輪郭をもたず、互いに対して外在化するといういかなる傾向もなく、数とのいかなる近親性もない。それは純粋な異質性のはずだ。
持続は意識のものだが、物質も持続の中にある(これも「時間と自由」からの引用)
確かに、たとえ事物はわれわれのようには持続しないとしても、事物のなかにはなにかよくわからない理由があり、そのせいで、いろいろな現象は、すべてが同時に生起してしまうのではなく、継起的に出現するように見えるということを、われわれははっきりと感じる。
ベルクソンは「わからない」ことを強引に理論に組み込もうとしない。
経験で「そう見える」し「そう感じる」、それだけで十分ではないかという立場。
偉大な人だなあと思う。
「われわれには(略)そう見える」という微妙は表現がミソだと思う。
イデア論や弁証法を検証可能性で断じる議論は、ある種の哲学Gが行ったが、「完全制覇は無理」ということがわかった(p58)。
ウィーン学団のことだろうか。
本来、はるかに複雑で流動的なものの総体から、多くのものを抜き取る、引き算すること、無視することが知覚である(p68)。
言語のことも触れられているが「拾遺」にメモったので略。
回想・想起を抜きにした、真にその瞬間に対象を知覚することを純粋知覚la perception pureと呼ぶことにするが、理論的にありえても事実上ない。
<現在>の(知覚の)内容はほとんどない。
過去の記憶が溢れ出て、それを追認・再認しているのが知覚。
何度も見た記憶を見直しているのを、”今、知覚している”という体にしている(p74)。
私の目の前のPCは、ずーっと毎日見て蓄積されたPCの記憶が参照枠になって、この瞬間、知覚しているもやもやした不定形の対象から切り出されて「私のPCだ」と知覚される。
混沌とした対象からXXと切り出すには、先に「あれはXXである」という概念がなければ不可能ともいえる。
もし全く見たことがないものが目の前にあるとすると、使い方がわからないというレベルでなく、物体として何だかわからない。何かの組み合わせのように見えてもどこが境目かも分からない。
その物体が(背景から浮き上がって)見えるとすれば、背景の方が、私が知っている何かと同じ/似ていることで過去を参照枠にできているから。
知覚の場は脳や心や意識の「中」ではない。
対象があるその場(p78)。
知覚の場がその対象の場って、面白いんだけど、自分の言葉にまだできない。
知覚は脳の中に情報としてあるのではない。
それぞれの場所に散らばったままである。
とはいえ、世界と身体に区別がないわけではない。
身体は世界の一部に過ぎないが、特殊な一部である。
それは身体外の知覚と内部の知覚(=感情)が違うことから理解される(p79-80)。
これもやっぱり自分の言葉にできない。
記憶は劣化した知覚ではない。
記憶と知覚は原理的に異なる。
これらを媒介するのが記憶image:le souvenir-image。
記憶imageは生まれつつある知覚。
その背後に純粋記憶le souvenir-purがある。これは物質的ではないが、固有のありかたで存在している(!p82)。
さっきのPCの例で「参照枠」としたのが、純粋記憶から浸みだしてきた私のPCの記憶image。
ベルクソンは脳と脊髄との間に本質的な違いはないと何度も書いている(p87)。
クラゲも眠るらしいのだが、これと遠くないことを述べている気がする。
記憶の議論もとんでもない。
金森修「ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか」 NHK出版、東京、2003