ベルクソンの自由の議論は核心部分があっさりしていて、なかなか腑に落ちない。
分かりやすいところから。
人は熟考し躊躇することがあり、その時に自由があらわれる。もし自由がなく全てが決定済みなら、一挙にことがなされる。
自由の逆を考える。
決定論の立場なら、私がAが選ぶことが必然として決まっているので、AかBかの選択の際、私は即座にAを選ぶ。
ところが現実の私は「悩み」「じっくりと考える」という時間をかけた行為、持続の中にいる。
…ということ自体が、私は自由であると証立てている、ということだろう。
「躊躇うことができる」ことの中に自由の存在が証明される。
堅苦しい哲学用語を使わず、自由という難問をさらりと説明するベルクソンの、なんとおしゃれなことよ。
以下は同じこと。
私が熟慮し選択しなければならない時、自我のうちで意識が強くなる。意識の強度が強いほど、自由があると理解される。
私が時間をかけて(持続の中で)一生懸命(意識の強度が高くなる)考えないといけない時に、自由があると自ずとわかる。
習慣的、自動的な行動では意識は縮減する。
一生懸命考えなくてもよい、習慣的でほとんど自動的な判断は日常的に行われる、というか普通はそちらの方が多い。
そういう時は、まさにほぼ無意識だから、ベルクソンの表現では「意識が縮減する」。
問題は次。
先行事象を事後的にある行為の理由として説明することはできる。しかし、先行事象だけで十分に予見できない。
ベルクソンの議論のキモは物理法則と人間の選択を分けたこと。
ほかの哲学者は「因果論」「自由論」とまとめて論じてしまう(たぶん)。
物理的な出来事は原因と結果が物理法則で決定されている。
そんなことはベルクソンにとって当然なので、わざわざ書かない(から分かりにくい。他の箇所や論文では書いている)。
人間の選択は2つ、習慣的機械的なものと、よーく考える(熟考)で、前者の場合、XならYと決めてしまっているから自由もへったくれもない(自ら自由を捨てているともいえる)。
問題はよーく考える時である。
最初、「原因」「理由」「目的」を念頭に置かないといけないかなあと思って調べかけたが、ベルクソンは講義で概念に落とし込むなと言っていたので、先生の言う通り、自分の経験で考えてみることにする。
夏頃、詳しく書くのは控えたいので”R”とするが、多くのR状態の方が搬送されてきた。
Nという危険な状態の症状の一つがRなのだが、別の理由でもRになりえる。
そして、多くの方がNとはっきり判断できなかった。
一方、NならDという薬を用いることになっている。
慣例的に使うことになっていて、添付文書にもそう書いてあるが、強いevidenceがない。
さらにどんな薬にも副作用があり、Dも肝機能障害やイレウスなどがありえる。
またDの使用で入院期間が延びたという論文もある。
一方、NでなくてもそのままにするとRからNに移行する可能性がある。
さてDを使うべきか。
その都度迷いながらDを使った。
”結果として”殆どの方はNではなく端的にRだったのだが、皆さん、無事に回復なさった。
さて、Dを使った理由は何か?である。
事後的に言える理由は「Nに移行する可能性があるRだったから」である。
しかし、順行時間の<あの時>は、情報がなく結果を確実に予見できないので<理由>を確言できず、「NかRだけなのかはともかく、リスクとベネフィットを考えれば使った方が適切と思ったから」である。
突き詰めれば曖昧な理由だ。
にもかかわらず、私は決めたのであり、このギリギリの瞬間に自由がある・・・ということだろうか?
実存主義と重なっているように思う。
重要かなと漠然と思うのが、私の中で「使う」「使わない」は、選択の図示でよく描かれる<きれいな枝分かれ>になっていないことである。
私の中では「使う」方が経験的な(持続の中で)重みというか勢いというか、そういう何かが「使わない」に比べて違うのである。
こういう内的生が大事なんですよね、ベルクソン先生。
・・・・やはり「時間と自由」の第三章にチャレンジしようと思う。