第十五講 1903年3月27日

 近世哲学は、ベーコンによる実験の導入から数学・物理学をモデルにした。

 つまり非連続、部分、持続ではないものが主流になった。

 純粋な実験は(現象自体を観察するので)連続だった。

 プラトン、アリストテレスがイデア・数・物質を扱ったのに対し、クザーヌス、ブルーノ、ケプラーなどは同じ方向性を持ちつつ、心理的発想や脱物質、世界霊魂を論じた。

   

 持続:一つの凝縮contractionとして、無限に豊かで無限に異質的heterogenie(均一ではない。リズムと表現されることもある 訳注p426)なもの。

 意識の外部に流れ、具体的で、恣意的に縮めたり延ばせない(例:砂糖が水に溶けるのに時間がかかる)

 集合的duree collective

 私の持続と物質の持続の中間的存在を数多く想定できる。

 私の持続は非決定性(=自由)。宇宙全体は無限に弱い非決定性(=自由ではない。なぜなら物理法則が支配している)。

 事物自体も持続。

 私たちの持続は意識。

 私たちの意識=持続なので異質的で、先に与えられた要素から再構成・予見できない。連続的創造的に出現。

 

 私:自分自身のうちではなく、知覚するもの全て至るところに存在する。

 知覚を狭縮し、認識を狭縮し、人格性が切り出される。

 これは重要そうなのだが、いきなりこのように記される。ちょっと考えたい。

 

 

 第十六講 1903年4月3日

 運動には内部がある(p266、275の図 運動には別の次元があるということか)

 運動の外=空間

 運動の内=意図intention、方向性、強度intension、持続、時間

 

 ガリレオやニュートン、ベネデッティ、カヴァエリらは数学的・外部的である一方、形而上学的(内部的・持続的)だった。

 無限小は空間ではありえない(計算の工夫のための概念)とされたり、時間・持続としてはでありえる(たどり着かない=終わらない)意図・強度で大きさや量を生み出すとされた例。

 持続が入り込んで数学が変容し、変容した数学を用いて体系が構築されていった。

 

 

 第十七講 1903年4月24日

 デカルトは体系と持続における直観の両方を用いた。

 → 彼の体系の力であり弱点。

 

 懐疑論:デカルトが捨てたのは「真らしくみえるもの」

 真らしくみえるものは古代哲学からのもので、これを捨てることは概念の拒否。

 → 代わりに”できあがりつつあるse faisant”を導入。

 

 Cogito:時間の中にある思考や意識=持続における議論。

 プロティノスなら人が認識できるのは非時間的(=持続でない)な存在で、自己認識は叡智的なものへさかのぼることなので意識(≠持続)ではないと論じただろう。

 だがデカルトはCogitoの根拠に神を導入する。

 神は一挙に覚知する、非時間、持続ではない不連続なもの。

 

 時間:諸思考の継起

 外的持続・事物の持続・物理的時間で神はあらゆる瞬間に再創造する=時間/持続の諸瞬間が分離する。内的持続(記憶?)も非連続。

 → 時間を”持続の不連続”とした。

 

 自然学:物質を構成しているのは運動する延長。

 → ”できあがりつつある”

   延長は”小片”としかいえず色も大きさも形も規定されない。

 要は、デカルトは非連続・数学的・体系的議論をしながら、連続・持続に触れたり近づいていた。

 

 デカルトのある書簡「(心身合一を)説明するのは極めて困難ですが、ここでは経験で十分です」と書いている(!) 

 

 

 第十八講 1903年5月1日

 デカルトの体系的精神の継承者がライプニッツ。

 全てのモナドの共存の秩序が空間、継起の秩序が時間=空間・体系が優位な議論。

 モナド:全体に対する部分ではない。各モナドが全体で、この宇宙の可能な”諸視点”。一つ一つが孤立し相互作用しない。しかし調和的(互いに補完する)。全ての因果が含まれ永遠。モナドを通じて継起を知覚する(=時間)。

 空間:諸モナドの一致を表象するための一時的な可感的”ツール”。
 持続:錯綜した知覚。人間的な何か。

 

 

 第十九講 1903年5月8日

 デカルトの神 → ライプニッツの予定調和 → カントの統覚の総合的統一

 カントは時間と空間を事物側に置かず、精神の側に置いた(感性の形式)。

 

 (つづく)