第六講 1903年1月16日

 イデアのイデア(善のイデア) → 諸イデア → 世界霊魂(プシュケー)

 後にプラトンは諸事物への移行の契機として神を持ってこざるを得なかった。

 右は左のものの似姿、模倣。

 変化を受け止める基体として(もっとも右に?)無限がある。

 

 たとえば青や赤のイデアは不変だが、現実では青から赤に物の色が変化することがある。それは基体にイデアが”投影”され変化したように”みえる”から。青も赤も基体も変化していない。

  

 神は永遠(不動)の”動きのある似姿”として”動く天球(天球は自転し、場所は動かない=不動=永遠)”を作り、この天球の運動が時間

 「ある」:永遠についてだけいえる

 「あった」「あるだろう」:時間についていえる

 発見:イデアをみることを妨げる何か・覆いをとること

 

 

 第七講 1903年1月23日

 形相(エイドス、モルフェー):プラトンのイデア(超越)に相当するものとして、アリストテレスは事物に内在する形相を提示。形相は精神そのもの

  精神は諸イデアの場とも表現。

  超越、内在という発想が空間を前提。

 質料(ヒュレー):イデアの減弱したもの。性質(不動なもの)が通過する(投影される)場。私たちが知覚し考える実在。イデアからの減弱なので、完璧(イデア)に向かおう(戻ろう)とする働きももつ。

 

 アリストテレスは実在=質料から出発して考え、形相は実在しないと考える。

 十全な形相=神=思考される思考(思考の思考)で、十全な質料は潜在的にしか存在しない。

 思考する思考は「私」のこと、私たちに思考される思考するものは「神」のこと。

 

 

 第八講 1903年1月30日

 アリストテレスは第一動者(≒神。「思考の思考」「形相の形相」「すべての浸透の全体」「叡智的形相の共浸透」とも表現される。形相の塊的なイメージ?)を想定し、これが永遠の運動(終わりも始まりもない=アリストテレスは無からの創造を認めない)、円運動を起こすという。

 神の思考は対象に向かっても対象自体が神(の創造物か自身)なので神の思考は円環をなす。これが運動の本質が円運動としたことに関係(?)。

 直線は円周上の点が平面に投影されることで生じる。

 

 純粋形相=神=永遠  

 純粋(第一)質料(性質も、場所も、大きさもない)=無=永遠

 2つの間で運動と事物(変化)がある

 

 

 第九講 1903年2月6日

 アリストテレスは第一天球(場所を持たず場所をかえない宇宙的な場、真の場)を想定し、それが減弱、衰退し、低次の天球へおりていくと考えた。

 同様に第一天球の円運動が減弱して低次の天球の運動となる。

 

 場所:四元素の不動の表面。

    それ自体は動かない外皮のようなもの。中で四元素が円環的に交代する。

 質料:無ではない。

    アリストテレスにとって空虚はない。

 

 運動は事物のうちにある。

 運動は時間ではない。

 時間は運動の中にある様相である=前後があり、数えることのできる、運動の数が時間。

 <数える者>が必要=魂が必要=「魂がなければ時間はない」

 時間は「内的な流れ」

 

 能動知性:神の知性に近い知性の本源的部分。意識されず無時間で変化しない(神へあるいは神からの場でもある) 

     → 魂に出会い動きを与えられる → 

 受動知性:意識し時間において発展、機能し、普遍性をもたらす論証的知性。知覚、感覚、想像力に由来するもの以外の質料はない。

 

 魂=形相、身体=質料

 

 

 第十講 1903年2月23日 (まとめ?)

 超越は完璧な表現だが、内在はそうではない。

 イデアが完璧ではない仕方で表現されたのが事物(質料/質料性)で、時間・空間で生成・変化。

 完璧なものの劣化が下りてくるという発想がプラトン~アリストテレスにある。

 プラトン:イデア → 神:天球を等速運動させ時間を作る → 世界霊魂 

 アリストテレス:思考の思考(≒神)は循環している。その模倣として規則的等速無際限な円運動をする第一天球。事物の生成も不完全な円運動(模倣)。円運動≠時間で円運動を数える数が時間。さらに数える魂が必要。

 

 (つづく)