主な議論以外で気になったこと。

 

 

 ベルクソンの共感、感情移入についての議論

 第一講 p30-32、第二講 p52-54

 

 言語観

 語は心理状態のうちにある平凡で非人称的なものしか記しません。そうでなければ、私たちは語が含んでいるものを理解できないでしょう。私たちが語を理解できるのは、皆が感じているものに訴えるという条件の下でのことにすぎないのであって、ある特定の人物の指摘なものによってではないのです(p53)

 

 語とは慣習的で人工的な何かです(p255)

 

 人は(略)話し書く術を学ぶことはできますが(略)行動する術を学ぶことはできません(p283)

 

 古代哲学は言語とは真理の受託者であるという考え(られたが 略)、言語とは、それ自体としてまったくもって完全な何かあるものの堕落(です p283)。

 私だけが抱えている<この感じ>を言葉にして伝えるには、言葉は荒い。

 また語は”堕落”である!

 

 変化

 (ある)事物のうちで多様に思われるものが、実際には一であるということをよくよく考えてみるならば、最も軽微な変化のためにすら、全体の深い内容的な変容が必要(p57)

 私たちは部分の集合ではない。私は私だ。

 私が変わるとすれば、私のある部分だけでなく、私が全体として変化している。

 

 概念

 習慣的思考は(略)概念から事物へ向かう(略)。私たちは諸概念を取り上げて(略)それらを試しに対象にあてはめるのですが、それはまるで、たくさんの既製服をもって、どれが一番似合うかを試すかのようなのです。(p81)

 ベルクソンにとって概念は事物をそのまま把握することではない。既存のものにあてはめてしまうこと。

 

 違った科学の可能性

 ルネッサンスの偉大な科学者たちが数学者でなく生物学者であったなら(略)純粋に力学的現象、空間における純粋運動ではなく、生命的な現象が(科学:レス主挿入)モデルの役割を果たし得た(のではないか p126

 発想のスケールが大きすぎる。というか、異次元な気がする。

 

 知的健全さ

 思い出す術を知っていることではあるでしょう。しかしまた、そしてとりわけ、忘却する術も知っているということなのです(p202)

 これは考えるべき言葉。プルーストが同じことを書いていた気がする。

 また、自己の大部分は忘却で、注意を向けることは、逆にいえばほとんどの情報をカットすることでもあると書いている(p202)

 サリエンス仮説とほぼ同じことを明快な言葉で表現している。

 

 問題が起きた時

 問題の来歴を歴史的に説明すること(略)、これはほとんど問題を解決することなのです。(p235)

 問題が起きた時、いったん前に戻り、その問題がどうして、どのように問われるに至ったかを明らかにすることは、すでに解決なのだという箴言といってよい発想。

 

 体系化の弊害

 すべての困難は(略)私たちが体系的であるとき、体系を構築するとき(略)からきているのです。(p237) 

 ヤスパースと同じ意見!

 

 

 ちょっと考えたいことを次にメモ。

 

 

藤田尚志、平井靖史、岡嶋隆佑、木山裕登訳:「アンリ・ベルクソン コレージュ・ド・フランス講義 1902-1903年度 時間観念の歴史」 書肆心水、東京、2019

Bergson H: Histoire de L'Idee de Temps. Cours au College de France. Riquier C ed., Presses Universitaires de France, 2016