「機械」について小林が書いていると読んで大学の図書館で探したのだが、たぶんこれ。
何回も読み直したが、どうしてもわかない。
以下、今のところの考え。
小林の考える横光の特徴は
眼の發見であつた。(略)外象に放たれて自らを知らず現實を縫つてゐた(略)
ところが眼の発見によって
人びとの眼から(略)氏の心情をかくして了つた。「花園の思想」は(略)氏の眼の理論の頂點を語る作品である。
横光は人びとや物事の運命を心情を交えずに描いてきた。
しかし、「花園の思想」では眼で描きつつ、横光の強い想いも重ねられていた。
というか、そのはずだった。しかし、
波立つ悲嘆すら氏の眼に貫かれて水を張つた一碧の水盤と化した。(略)人々の心は水盤の水が何かの奇蹟で洩れ零れて欲しいと希ふ。
そして
この希ひを心から知つたのは恐らく作者一人であつた。
横光の孤独がある。こうして、
(名作である「日輪」以後)肉眼は擬眼となつた。
擬眼が何を指すのかが私には分からないのだが、
己れの最も動揺する心すら擬眼への贄とする(略)氏の心は形について動くことを禁じられてゐた。(略)そして心は遂に形となつたのだ。
擬眼は、”眼での描写に心情を組み込む”という意味だろうか。
「日輪」は古代が舞台で人物が生き生きと描かれ、同時代の人物の言動だけが描写されるそれまでの作風とだいぶ異なる。
が、小林には、擬眼以後の作品は、眼の透徹さを失った魅力のない作品に思えた。
氏の青春は「花園の思想」と一緒に死んだ。以來、氏の作は私には色褪せて見える。
その後の横光は
己れの心の形を寸斷する事によつて現實から偸(ぬす)んだ眼の返済を果たそうとした。
擬眼を解体する作業に横光は向かった。
それが「上海」などの作品で、これらに小林は悲劇を感じるという。
そして、やっと生まれたのが「機械」だった。
「機械」の輝きはこの長い道の輝きに外ならぬ。
考えてみると、「機械」では登場人物たちの心情がほとんど記されない。
ところが、登場人物たちの単純な心理描写と彼らの関係性と行動によって、鏡合わせになった人間たちの地獄のような状況を描くことに成功している。
さて有名な一文。
「機械」は世人の語彙にはない言葉で書かれた倫理書だ。
これ以後の理路も私には分かりにくい。
文章を拾いながら、頑張って考えてみる。
裸形の現實は理論そのものなのだ。
現実という機械は、ある仕組み、理論をもっている。
これは人間の無垢と人間の約束との對決である。
無垢であるとは現実にそのまま従うことだろう。
ここでいう約束は、道徳・倫理のことだと思う。
一般に無垢は約束から學ぶ。つまり約束から理論をもらふだけだ。
現実に従うだけの人間は、やがて道徳を学ぶ。
さらに道徳を学ぶことで、現実の仕組み、理論を知る。
「私」の無垢は(略)理論そのものだ。
ところが主人公は道徳を学び、その上で現実の仕組みを知るのではない。
いきなり現実の仕組みに従う。
約束の法則と機械全體の法則との關係は全く不明である。
道徳と現実との関係はわからない。そもそも現実の仕組みが謎だ。
「機械」は信仰の歌ではないとしても、誠實の歌である。(略)「私」という人物の誠實は、己れに何んの満足も感じないで死んで了ふ誠實だ。
裸形の現実には機械のような仕組み、理論がある一方、人間の世界には道徳がある。
しかし、無垢な「私」は道徳に従わない(このことは反道徳、反社会的に直結しない)。
従わないというか、道徳に気がついていないかのように振舞う。
現実という機械の仕組み、理論に、あくまで忠実なのである。
それは、”わたくし”を消し去ること、つまり”誠実”なのである。
・・・ということか。
カントの定言命法に近いことを主張しようとしているのだろうか??
小林秀雄:横光利一(1930年)小林秀雄全集第一巻 pp393-404、新潮社、東京、2002