Youtubeで東さん関連動画がなぜかあがってくることが多く、眺めていたら共感することばかりで、どうしたことかと某古本店で購入。

 

 私は東さんとほぼ同い年だが、これまでのご活躍では私が一回も見たことがない「エヴァンゲリオン」を学問的(?)に論じたり、ネットの可能性など「最先端」(p226)なお話で、若い頃から”新しい”が嫌いなとっちゃん坊やな私は苦手だった。

 とはいえ、東さんのご著書を読んだのは、恥ずかしながら「存在論的、郵便的」だけなのだが。

 

 ところが最近の東さんは、私の誤解でなければ、ネットやAIの限界、他者との一回限りの出会いの重視、物事を一気に変革することはできないなど、納得させられるご発言が多く、あれ?と思っていた。

 

 

 で、本書である。

 

 挫折のお話は、基本的に”学者さん”だった東さんが苦労を重ね、”一社会人”になるまでの成長譚として拝読した。

 苦しみに満ちた10年間で、東さんの価値観はゆっくりと変化したのではないかと思う。

 偉そうだが。

 

 

 全体を通して東さんの処女作での重要な概念、「誤配」がキーワードになっているが、私なりの表現なら運とご縁。

 50も過ぎると自分の能力なんてたかがしれていると思い知り、結局、人とのご縁と運だなと思うのである。

 

 だから実際に人と触れあうことのないネットだけでは限界がある(第六章)

 ネットは入り口にはよいが、その後のオフラインでの出会いが重要である(p234)

 しかもノイズのような一見どうでもいいことが大事だったりする。

 また、そのような場は有料であることが重要(p246)

 

 東さんの初期の議論はフロイトーラカンを使っている。

 有料であることの意義をフロイトはすでに指摘しているのだけれど、精神分析を実践でなく理論で考えている方はノーマークな議論かもしれない。

 

 東さんは信者でなくよき観客を作りたいというお話を経済原理と絡めて説明なさっていた。

 この説明だと「結局、儲けたいのか」と難癖をつける方が出てきそうな気がする。

 東さんの目的はそうではないと思う。

 

 適当な料金設定は、客からの過剰な期待や理想像の押しつけを断ち切ることができる。

 料金で儲けることを考えると、実は過剰な期待や理想像の押しつけを引き受けることと同義になる。

 例えていれば高額な壺を買ってもらうことと同じで、それこそ信者作りになってしまう。

 一方、無料にすると客は最初から何も期待せず、有益なものを得ようという構えになりにくい。

 そうして文句ばかり吐き散らすかもしれない。

 

 しかし、もし安からず高からずな料金が設定されれば、私達は「お金を払ったんだから、それに見合うものを何か得なければ」と真剣に耳を傾けるだろう。

 よしんば文句を言うとしても「これこれの理由で料金に見合わない」と説明できなくてはならず、そのために立ち止まって考える必要がでてくる。

 

 したがって、今のYoutubeやSNSのような無料コンテンツの無残なコメント欄のような状況にならずに済む。

 

 繰り返すが、これは私の意見ではなく、フロイトの考えを言い換えただけである。

 

 

 

 新たな論壇を作ろうという東さんの活動は、150年前に菊池寛がやろうとしたことと同じではないかと私は思っている。

 そして、ゲンロンとシラスは、次世代の文藝春秋になるのではないか。

 双方向性、ほどよい閉鎖性と開放性、現場主義を、現在利用可能なハードとソフトによってアップデートされた文藝春秋である。

 

 

 「どうせ老害って言われるんだろうけどさー」や「今の僕に出来ることはこれだけだよ。でも一生懸命なんだよ」など、Youtubeで東さんがこぼす愚痴に勝手に共感している同世代オジサンとして、東さんの活動を応援している。

 

 頑張れ!東さん!

 

 

 

東浩紀「ゲンロン戦記」 中公新書ラクレ、東京、2020