純粋小説論を読もうと思って手に取ったのだが、強迫的な性格なので、数年前に読んでいた前半に収載された短編も、つい再読。

 

 驚いたことに印象がまったく違う。

 軽く都会的な短編ばかりと記憶していたが、それは「幸福を測る機械」だけで、似た雰囲気の「愛の挨拶」は、女性の気持ちを理解し損ねている男の話だった。

 

 いったい、私はいつになったら大人になれるのだろうか。

 

 

 「マルクスの審判」「頭ならびに腹」「馬車」は、理性に忠実か否か、あるいは理性と身体性の葛藤という共通した主題の短編だと思う。

 

 

 「機械」は改行がほとんどないことに、今回、初めて気がついた。

 「鳥」に至っては改行がまったくない。

 両者は連続している物語と考えていいらしい(解説p284-285)

 

 

 「機械」を人物を色分けして段落ごとにまとめてみる。

 第二段落から第四段落までは、ぼんくらな主人について。

 第五段落から、加速度的に三人の男の鏡合わせのような地獄の状況が描かれる。

  

 第一:軽部 (疑い)→    第五:軽部 (殴る)→ 

 第六:  (疑い)→ 屋敷  第七:軽部 (殴る)→ 屋敷

                      (殴る)→ 軽部

                    屋敷 (殴る)→ 軽部

                    軽部 (殴る)→ 屋敷

                    屋敷 (殴る)→ 

 第八:屋敷が死ぬ

 

 第七段落のウロボロスの蛇のような三角関係をピークに屋敷が死ぬことで、この物語の人間関係は冒頭に回帰する。

 また、物語中で三人が稼いだ売上金を主人が落としてしまうという逸話を、ご丁寧に横光は挿入しており、経済状況までも冒頭に回帰する。

 疑い疑う関係性は入り子状で、あたかも機械仕掛けのように物語は進む。

 

 「私」だけでなく、登場人物全員が狂気じみているように描かれるが、状況自体が機械的で情緒が入る余地がないと、雰囲気までも狂気めいてくる。

 

 狂気とは<常軌を逸した精確さ>なのかもしれないと思わせる短編。

 

 

 「鳥」はリカ子をめぐる三人の男の物語。

 リカ子の家に居候するQと「私」。

 学識ではAはQに勝ち、Qは「私」に勝っている。

 「私」はQに断ってリカ子と結婚する。

 しかしQの方が徳が高いと考える「私」は、リカ子をQに近づけようとする。

 学術的なことでQとAは論争し、Qは負ける。

 「私」はリカ子をQから奪った罪があると考え、償いにリカ子をQに返そうとする。

 そこで「私」はあることに気づく。

 QはAに負けた。そして「私」はQに負けている。

 「私」は徹底的に負けているのだ。

 「私」は過去を捨て、リカ子と再び結婚することを決意する。

 そして「鳥になって」飛行機に乗り、機内で「私」はリカ子に触れると「長い間全く忘れていた」ある感覚を味わう。 

 

 

 これも機械的に進む話だが「機械」と違うのがラスト。

 学識と有徳が混同される前半では「私」はひたすら理詰めで人間関係を考える。

 この間のリカ子の言動は切ないし、「私」の理路も狂気じみている。

 

 しかし、負けを受け入れ、勝敗も学識も徳の比較も何もかも捨てた時、「私」はリカ子との本来の関係性に気がつく。

 

 <地>質学者だった「私」は<地>面から離れる(=鳥になる)。

 

 それは機械やQ&A(!)、<問いー回答>のような論理を捨てることであり、同時に忘れていた情緒や身体性を取り戻すことでもあるのだろう。

 

 

 本当に面白い小説。

 

 

 

  

横光利一「愛の挨拶 馬車 純粋小説論」 講談社文芸文庫、東京、1993