四人称を知りたくて読んだ。

 

 まず、通俗小説と純文学の違い(p259-261)

通俗小説:偶然性(=一時性、特殊性)がある。感傷性がある。

純文学または純粋小説(厳密には後者は前者の上位概念と横光は考えているようだが、混ぜて説明しているので同じとする):必然性(=日常性、普遍性)がある。感傷性がない。 

 この定義だと「純粋小説の範」とされるトルストイ、バルザック、スタンダールも通俗小説になると横光は言う(p260 当時、横光が読んでいた「罪と罰」が例示される)

 

 定義をうまく呑み込めないので、自分なりに書き換える。

 

 通俗文学

 たとえば、危機に陥った主人公のもとに<偶然>通りかかった誰かが助け、助けた人物は<一時的>な役目を終えるともう登場しない。その人物や逸話は物語全体との関連が弱く<特殊性>を帯びる。

 いわゆるご都合主義。

 

 純文学

 物語全体の構造から、登場する<必然性>をもった人物が表れ、物語を抽象化すれれば誰にでも起こりえる構造を持つ<普遍性>がある。

 さらに当時の日本文学の特徴だった<日常>が描かれた(後述)。

 そして筋は「理智の批判に耐えられる」(p259)展開。

 

 

 当時の日本の純文学はどのようなものだったか。

 「生活に懐疑と倦怠と疲労と無力さ」ばかり与える「身辺の日常経験のみを書き」、それでもって「真実の表現」「リアリズム」としていた(p261)

 横光はそれを批判し、小説で重要なのは「物語を書く意志」(p263)つまり「創造」だと主張した(p262,264)

 当然の議論のようだが、当時は思い切った主張だったのだろう。

 

 さらに横光は、純粋小説の偶然性は、その小説の構造の大部分を占める日常性から起きる特殊な状態か、日常性を強化するものであると指摘する(p261)

 つまり、通俗性(偶然性)と芸術性(日常性)は分離できない。

 

 では何を書くべきか。

 横光の考えでは「智識階級の自意識過剰の問題」(p265)。

 言い換えると「道徳と理智の抗争」(p266)

 

 

 どう描くべきか。

 従来の日本の純文学は作者一人だけの内面が描かれてきた。

 しかし、現実の人々は各々で違うことを考えている(p268)

 したがって、

多くの人物を登場させ、各人物の思うところをある関聯に於てとらえ、作者の思想と均衡させつつ、中心に向かって集中する。(p268-269 文章を少し変更) 

 正直、よく分からない。こうも言い換えられている。

登場人物の内面を作者一人で掴めない。作者の意図の元で動く登場人物の廽転面の集合が、作者の内面と相関関係を保って物語が進む必要がある。(p269 文章変更。この発想はバフチンに近そうだが、まだ勉強中) 
 「廽転面の集合」とは、登場人物たちの内面や行動だろうか。

 

 これを可能にするため作家に必要なのは、観察、霊感、想像力でなく「スタイル」(p269)

 

 ところが難問がある。

 一つは自意識という「新しい存在物」(p269)をどう表現するか。

 横光の考えでは「四人称の発明工夫」が必要である(p269-270)

 

 もう一つは登場人物の行為と思考を繋ぐのものをどう表現するか。

 行為と思考を繋ぎ、行為でも思考でもないものを、横光は「偶然に支配されている」という(p272)

 さらにその媒介物は「自意識」なのだという(p272-273)

 

 偶然に満ちた通俗的な人間の在りようを真に描くことが純粋小説であり、その表現に必要なのが四人称である、これが横光の結論になるだろうか(p273)

 

 

 

 難解。

 自意識は新しいのか、思考と行動がずれを偶然性と表現していいのか、それは自意識と等価なのかなどの疑問がわく。

 また「私を見る私」を日本の純文学は描いていないというが、「当時の」という文脈だとしても、そう言い切れるのか分からない。

 

 

 結局、四人称について詳述されない。

 私なりの考えだと「神の視点」と作者の内面を結びつける試みではないか。

 

 しかし、それは当然、失敗することになる。

 「紋章」が語り手と神の視点の交代で終わってしまったように。

 

 

 

横光利一「愛の挨拶 馬車 純粋小説論」 講談社文芸文庫、東京、1993