無茶苦茶面白くて、新幹線車中で読了。

 

 記憶というと認知機能のようだが、タイトル通り身体性を含んだ記憶。

 もともと記憶の回路に小脳が含まれているので、運動など身体性が入り込むのは脳の構造的にうなずけるのだが、そんな理屈は置いておいて、事実そのものが面白い。

 

 

 驚いたのが幻肢痛について。 

「ローラーでおしつぶされるような感じ」

「骨を折られるような感じ」 (p83)

「しぼられる感じ」

「爆発している感じ」

「刺されている感じ」

「ぐじゅぐじゅな感じ」

「腫れて硬くなる感じ」(p145-146)

「燃えているような感じ」(p215)

 など驚くほど多彩。

 私は「とにかく痛い」しか伺ったことがなかったのだが、私の尋ね方が悪かったのだろう。

 確かに大変な苦痛に違いない。

 

 もう一点、幻肢痛の程度は、残存する箇所があれば、そこを動かせるか否かと関係していること(エピソード8)

 多少なりとも動かせる個所があると楽なのだという。

 不勉強なことに知らなかった。恥ずかしい。

 

 よく分からないが、運動野・補助運動野の働きとそのフィードバックのズレが原因なのだろう(フィードバックがないので「動いていない」と判断した運動野が加速度的に興奮するのかもしれない)

 今後、もしこのような方の相談があれば、「無い手足が動ているところを想像する」と「想像しない」で痛みに違いがあるかを尋ねるといいかもしれない。

 あとは本書にあるラバーハンド錯覚を利用するとか。

 

 また、幻肢痛に中枢神経系に作用するある抗てんかん薬のプロドラッグがよく処方されるが、なるほど理屈に合っていそう。 

 ほかにも、抗てんかん薬を使うのも手か。

 

 

 興味深いのが、幻肢痛の中で「ぐじゅぐじゅ」や「しぼられている」など動的な訴えがあり、これはある症状の表現の仕方に似ている。

 このような症状の方には「動かす」のもいいのかもしれない。

 ちょっとしたヒントをいただけた。

 とはいえ、だいたい動かせない場所の違和感を訴えてくるのだが・・・

 

 

 それから、そもそも幻肢は元の形とは異なることが多いらしい。

 アンプタする前の足より短く感じたり、断端にいきなり足背がくっついているように感じたり、本書で紹介されている例では「手が胴体に入り込んでいる」(p143)と感じるという。

 驚きである。

 身体的記憶が、どうやら運動感覚や位置感覚に基づいているらしい(p84)のだが、それが理由だろうか。

 

 

 聴覚(だけ)では主客の区別がつきにくくなることがある(p118)

 これは自我障害が主体のある病気が、なぜ幻視より幻聴優位なのかの説明になりそうだ。

 

 逆にいうと、私達がいかに視覚のみに頼っているか(p114、121、125-127、198)

  

 言葉はこの世界を表現するには荒すぎること(p44-45、65)

 

 

 目から鱗が落ちたことをいくつか。

 

 先天的に体の一部が欠損している方に義手・義足などをつけるのは、ご本人からすると「意味がわからないものを付け足す」ことである(p164)

 

 「両手を取り戻す」とは、単に失った片手の「存在」が戻ることではない。

 両手が「連動して動く」ことである(p194)

 

 物忘れの方が失うのは「何月何日か」という情報ではない。

 「確かに今日は何月何日である」という実感である(私の言葉にすると、納得感、腑に落ちる感じ?)(p258)

 

 

 自分達にとっての当たり前が、そうでない条件で生きていらっしゃる方々にとって、いかに当たり前でないか。

 十分な理解に基づかない親切心は、端的に押し付けにしかならないという、ごく当然な、しかし、どうしても忘れがちなことを教えてくれる素晴らしい一冊。

 

 

 個人的には、共感について教えられた箇所が多くあった。

 

 面白くて面白くて、付箋をつけまくり、ドッグイヤーしまくり、時にぼーっと考えごとをしていたら、出張先の駅に到着していた。

 

 

伊藤亜紗:記憶する体 春秋社、東京、2019