主人公1:雁金八郎。

 実家は没落した素封家。醸造の研究に邁進し、身なりはぼろぼろ。会社で支配人だったこともあるが発明のために仕事をやめた。

 初子と婚約するが、初子の家柄で破談。山下の妻になった敦子と婚約の話があったがこれも破談(敦子が破棄したらしいp43)

 「行為の世界」の人(p56)

 

 主人公2:山下久内。

 醸造学の大家山下清一郎の息子で、敦子の夫。仕事はしているが、ぶらぶらしているのに等しい。自分とは違う性質の雁金に敬意を抱く。

 初子と関係を持っている。敦子は夫を「覇気がない」と思っている(p47)

 「頭が悪そうに見えるが」「高い部分で(略)混乱に混乱を重ね」ている「近代的な智識人」(p54)

 

 杉生善作

 雁金が借金をした杉尾家次男。未婚で、押坂自動車店の娘春子と縁談があったがうやむやになる(p51)

 大学中退後、仕事につがずにぶらぶらしている。

 敦子や、初子に思いを寄せている。

 

 「私」

 松山(p62)という名前の作家らしい。

 

 

 タイトルは雁金が名家出身であることを示唆している(p21)

 雁金にはノブレス・オブリージュが残っており、利益追求に興味を示さず(p318)、小学校卒業ながら大学の研究者を凌駕する発明をする。

 一時的に特許権を得ても、日本のために使ってほしいと権利放棄する豪胆な人物。

 ただ、冒頭での雁金の人物像は「雁金の野望は一重に家産の挽回にかかっている」(p11)となっていた。

 

 

 敦子、久内、初子の関係が私には難しかった。

 この三人はお互いにどう思っているのか。

 

 「へだたり」があり(p229)、敦子は雁金を愛しているとはっきり久内に言う(p74、296)。しかし作中、敦子の<本当>の気持ちは明確に描かれていないと思う。

 敦子は夫が自分を「誤解している」(p227)と述べ、夫を遊ばせるために勤めに出てもいいと話し(p292)、夫のことを「わからない」(p257)と雁金に話す。

 真顔で考えて「夫がわからない」と言う妻は、本当は夫を理解したいに違いないと思うのだが。

 

 久内は「敦子と別れよう」と「いつも」考えているようだが(p219)、お互いの関係に「寂しさ」を感じる(p232)ことがある。

 久しぶりの「夫婦の晴れやさ」が曇ると「まだ何事も云い合える間柄ではない」と思う(p297)。「まだ」ということは、どこかで期待しているのではないか。

 直前の二人の対話の雰囲気は悪くない(p294-300)

 

 久内の罪悪感から雁金に嫁ぐことを急に押し付けられる(p203)初子。

 本作全体を通じて何を考えているのか分からないのだが、一個所だけ気持ちを顕わにする。

 「今夜のお月さま、ほんとうに綺麗ですことね」と久内に話しかける(p306 漱石ファンならご存知の台詞!)

 何も反応しない久内。鈍感な久内の行動は予測可能で理解できる

 

 

 本作を読み始めた時、雁金、久内、敦子が解説にあるように「行人」のような関係になるのかと思っていた。

 が、私には久内が自意識過剰で自己中心的なだけの人物のように読めてしまい、共感をもてなかった。

 家族問題に悩んだ挙句に家出をしてフランス語を習い、プロメテウスの話を読む箇所(十三節)も、思考すること(=プロメテウス)を重視したまま、他人に同情できない自分に落胆するだけで(p287)、初子の件が解決しそうになると途端に機嫌が良くなるなど、本作を通じて彼は成長しない。

 雁金は久内よりも一生懸命に真剣に生きているが、芋やら大豆やら鰊やらを思いつくままに腐らせ(醸造し)安価な醤油を作ろうとしているだけで、彼も変化しない。

雁金の作中の発言は異様に細かく、横光は醸造学を勉強して書いたのかと思うと、横光=雁金のように思えてしまう)

 

 行動より考えてしまう歯がゆさ、妻を理解できない苦しみ、妻が因習的な「妻」の役割から出ようとしないことへの苛立ちなど、一郎のような具体的な苦しみが描かれ、それが後半で大きく変貌する「行人」とは、まったく違った。

 

 

 なお、本作では「第四人称」が使われた(らしい)。

 「私」と一人称で語られる個所がある一方、「私」がいない場面(四節など)では一人称は用いられない。

 しかし不思議なことに文体は連続している。

 この手法の意図は、横光の論考にあるはずなので調べてみたい。

 

  

 

 漱石を意識している文章(と思しきところ)

 

他の人々の顔には、西欧から流れてきている智識の副産物であるところの、疑いの片影が、どこかに必ずつきまとっているのを私たちは感じる。(p22)

 

彼は自意識の過剰に悩んでいる。赧(たん)面病にかかっているか(のよう)。(p73)

 

意識の自由さに一種異様な不自由さを感じ(る)。(p203)

 

俺というものはちっとも俺の自然な動きをしようとしない。(p231)

 

自由というのは自分の感情と思想とを独立させて冷然と眺めることの出来る闊達自在な精神なんだ。(p322)

 

 

 なんとも不思議な小説。

 

 

 

横光利一「紋章」 講談社文芸文庫、東京、1992