本屋でタイトルをみて衝動買い。

 

 しかし、「女ことば」ってどのくらい残っているのだろう。

 以下ある研究から(黒須、2008)。

 

 <非常に女性的> かしら・だわ・ますわ・ちょうだい・ですの(?)・ですもの・ですよね・ですわ・てよ・なの・なのね・なのよ・の・のね・のよ・のよね・ものね・(名詞+)よ・わ・わね・わよ  

 <女性的>  だもの・なの?・の?・もの・よねだわ

 

 結構あるではないか。 

 おおむね「~わ」「~ね」だろうか。

 

 

 私はいわゆるフェミニストではない(すまん、妻)

 が、本書で改めて言葉の運用から性差に関する意識が根深いことを理解。

 読んでいて、自分の考え方がこういう具合にできあがっているのかという発見そのものが楽しかったので、著者さんに「感心ばかりしてないで考え方を変えろ!」と怒られそう。

 とはいえ、女ことばに命令形がないという指摘を読んで、あれ、深刻なことではないかと読む態度を改めた(ちょっとだけ、だけど)

 

 「やめろ」に相当するのは「やめてください」「やめて」。

 これは命令ではなく要請(p22)

 性被害にあった際、拒否の有無が争点になるのは、実は日本語の言葉の問題も大きいかもしれないではないか。

 これはどなたか指摘があるのだろうか?

 

 第四章も深刻。

 言いまわしの女性らしさ。

 例えば「そう思いませんか?」「もし誰も反対でなかったら・・」など(p100-101)。

 要するに婉曲的な表現。これは海外(ドイツ)でも同様だという。

 表現は考え方や態度そのものなので、語尾や一人称を変えるかどうかなどより、よほど問題だと思う。

 

 とはいえ、男尊女卑の歴史はあちらとこちらで違うので、平野さんは「カップル社会(弱いから俺から離れるな:ヨーロッパ)」「男女棲み分け社会(弱いのだからひっこんでろ:日本)」と卓抜な表現をなさっている(p42)

 

 さらに日本はヨーロッパより緩い男尊女卑だったので、却って男女差を無くす動きが鈍くなっているのではないかと指摘なさっている。

 卓見。

 やはりその国の歴史や言葉から考えないと、こういう問題は筋道を誤ると思う。

 

 

 日本語に主語がないことはよく指摘される。

 驚いたことに、1888年にパーシバル・ローエル(海王星の動きを計算して、外側に惑星があると予測した天文学者!)が、助詞「は」は英語のspeaking of、フランス語のquant a(アクサンあり)に相当すると、すでに述べていたらしい(p81)

 「は」は「~については」というポジションの意味しかない。

 

 「XXくんは?」「あ、僕はビールでいいです」は「僕について(おいては)は、ビールでいいです」になるということだ。

 なーるほど。

 これを受けて、日本語の「私」「彼女」はただの名詞だと、多和田葉子先生が指摘なさっているという(p79)

 

 同じことだろうが、日本語は自動詞が多いらしい(p84)

 まったく気づかなかった。

 さらに受動態が好まれる(p85 ← これも受動態だ)

 自動詞も受動態も動作主を抜く・抜けるという点で共通。

 

 というか、数少ない(?)他動詞を受動態にしてまで、私達は「自然にそうなった」と言いたいのかあ、と驚いてしまう。

 

 卓抜な言語論・文化論でもある本。

 

 

 そういえば、本書でも議論されていた、英語以外のヨーロッパ言語にある男性/女性形問題。

 テレビで見たドイツ語講座でも話題になっていた。

 鎮西さんが「この際、なくしましょうよ!」といつものテンションで言ったら、シュテファンさんが「いや、それはない。それではドイツ語ではなくなります」と断言していた。

 えー、なくした方が(外国人の我々は)楽なのに。

 

 

 

平野卿子「女ことばってなんなのかしら? 「性別の美学」の日本語」 河出書房、東京、2023