「蔵の中」で有名な宇野だが、彼の良さは別の作品(作風)にあるのではないか と思わせる選集。

 

 

 冒頭の「屋根裏の法学士」が面白そうと思って買ったのだが、万能感を捨てきれない高等遊民の頓珍漢ぶりといった短編で、思ったほどではなかった(編者さんは文体が素晴らしく宇野浩二No1と大絶賛。確かに無駄のない素晴らしい文章。私は同書の「さ迷へる蝋燭」が実験的文体で面白いと思う)

 「夢見る部屋」と、「清二郎 夢見る子」の後半が抜群に面白く、「人癲癇」の不気味さと乾いた笑いは格別。

 

 「夢見る部屋」

 冒頭、わざわざ部屋の見取り図が紹介されるのも奇怪だが、執筆や愛人をかこうために借りた部屋の用途がどんどんずれていくのは、読んでいて不思議な感覚に陥る。

 前半は筋も伏線もあるが、主人公の内面描写が主になる後半とほとんどつながらず、小説としてはある意味破綻している。でも、私にとってはお気に入り作品。

 好きな物にあふれた部屋で、いまだ気持ちを残している初恋の人の写真、彼女に似ている人物の絵や主人公が好きな山々の風景写真を、先端に向かって絞られた形の天井にはめられた四角い窓から見える夜空のもと、幻燈器で眺め続ける主人公の、子どものような満足感と快感、心地よい孤独感は、読んでいて切ない。

気障な言ひ廻しをするやうであるが、恋という字を私の字引で引くと、夢の別名としてあるのである。(p62)

この世に完全に自分の持ち物として楽しみ得るものは、私の「思ふ事」即ち私の夢すなはち私の恋のほかに、何一つないのである。(p62-63)

 <すなわち>が「即ち」「すなはち」と平仮名になるのも、子ども返りしているかのよう。

 

 「清二郎」は、当時「追憶小品」が流行だったらしく(p85)、その流れで発表され宇野の幼少期が描かれる。

 前半はともかく、後半の「清二郎彼自らの話」からが面白い。

 序文に、久しぶりに故郷大阪に戻った宇野が、大阪がまるで変ってしまったと思い「真の大阪」を描こうと考えたのもこの小品を執筆した理由にあげている(p82、159)が、それがまさに後半だと思う。

 川が多く、夜になると川面に灯が反射する美しい大阪(「水の流れ」)

 その灯は遊郭のもので、あちこちに「芸者の名を許されない芸者」「やとな」や「男をなご」が夜闇に隠れてたたずんでいる大阪(p108-122)

 確かに大阪人は商売人だけれども

嘗ての彼らの親々は、恋の為には己が身を忘れたといふではないか。(p122)

 それが

今や大阪者はただの一ぺんの大阪商人となりつつある。 (p123)

 

 障害があったらしい兄(p129)、生活力のない母(p148、161)、与力だったが遊び人の母方祖父(p141-143、151-153)、同じように遊び人の母方伯父(p156-157)、遊女屋から武家に養子にきた父方祖父(p149)

 

 家の中で拾った抱き合った「裸の男をなごの人形」。

 「美しからざるもの」として禁じながら、密かに隠し持っていた大人たちのさもしさを感じつつ、その人形を「真実ただ美しいものであつた」と清二郎は思う。(「人形とすご六」)

 

 確か宇野浩二は荷風のことを毛嫌いしていたと記憶している。

 色街の真っただ中で育った宇野からすれば、荷風の脂粉好みは表面的なものにしか思えなかったのだろう。

 

 さすが国書刊行会。面白いシリーズを見つけた。

 次は幸田露伴編を買いたい。

 

 

 ところで奥付をみると1994年第一版第一刷とある。

 30年近く、誰にも買われることなく本屋に置いてあったのだろう。

 ページを開くとかすかに黴臭く、湿り気を感じて、まるで古本のよう。

 

 なんだか私が責任を持って、大事にしないといけない本のような気がしている。

 

 

 

堀切直人編:宇野浩二 夢見る部屋 日本幻想文学集成27、東京、国書刊行会、1994