大型書店で衝動買い。自主出版本?
「ドゥイノの悲歌」が完成するまでのリルケの苦悩を描く。
第一次大戦開戦のころからリルケは「悲歌」のアイデアを持っていた(p9)。
しかし、読み始めてまず印象に残るのは、リルケの女性遍歴。
いろんな女性がでてきて、正直、覚えられない。
終戦後、スイスへ。
しかし詩作は進まない。
リルケは矛盾した性格で、孤独を求めつつ人のネットワークを形成するのがうまかった(p26)。そしてそれを存分に活用した。
考えようによっては甘ったれといえる。
いろんな人を巻き込んで「悲歌」完成のための最適な場所探しを始める。
泣き落としのような手紙をあちこちに書き送り、ヴェニスに行ったりスイスに戻ったりと彷徨し、1912年、ドゥイノで執筆が始まる(p36、67)。
しかし、やはり筆が進まない。
この苦痛の時期を支えたのが、リルケの最後の恋人とされるバラディーヌ・クロソウスカ、通称メルリーヌ。
なんと、ピエール・クロソウスキーとバルテュスの母親(!p50)。
リルケは、ピエールとバルテュス2人に愛情をかけ、学校の世話などをしている(p147-155)。
クロソウスキーのリルケ論ってあるのだろうか?読んでみたい。
1922年、リルケは「悲歌」を完成させる(p105)。
ほどなく白血病を患り1926年に死去。
本書は事実を淡々と記載しているのだが、後半から出てくる「ドゥイノの悲歌」の説明は参考になった。
リルケは生と死を同一のものと考えていたらしい(p125-126)。
たとえば、1922年の「生と死」という詩で「生と死ーー核において一つ」と書いている(p132)。
「悲歌」では第七歌は生への賛歌で、第四歌は死を悲しむ内容(p125)。
リルケはインタビューで悲歌のことを「生の肯定と死の肯定を一つのものとして示している」と答え(p132)、「死とは光の射さない生の側面」とも述べていた。
また「生の本来の姿はこの二つの領域(死と生)に横たわり(略)此岸も彼岸もない。あるのは大きな単一体だけで、そこに天使が住まっている」とも話している。
リルケがキリスト教徒だったことは一度もないらしい(p163)。
さらに、天使もキリスト教的な意味でないと本人が言っている(p134)。
此岸も彼岸もないのだから、生と死に境界がないということになる。
キリスト教的な天国、煉獄、地獄、最後の審判という発想はリルケには無い。
大いなるものとしての天使はいる。しかし、審判を下して人を選別する神はいない。
考えようによってはかなり危険な発想のように思う。
死を怖がる必要はまったくないのだから。
とはいえ、分かりにくい。
たぶん違うと思うが、再生のようなことを言っているのだろうか。
もう少し調べるか、他の詩を読んでみるかしたい。
Heideggerが何と言っているかも調べたい。
それから薔薇もモチーフとしてよく出るらしい。
死と結びつける場合(p189)と女性、愛を象徴している場合があるという(p232)。
矛盾するようだが生(性)と死が連続なのだから、そうなのだろう。
「新詩集」に「薔薇の内部」という詩がある。
薔薇の内部が外へ溢れ出て、一つの圏を作るという内容。
性愛を表しているようでもあるし、死が生に反転するという内容でもありそう。
難しい・・・・
そういえば、ドゥイノの悲歌の第二歌はやはり性的内容だった。
ただし私が考えていた以上の内容。
祖先から伝わる欲望に翻弄される男と、神に向かう愛を求める女性とのすれ違い。そして本能に蹂躙される女性、その悲しい関係を描いているという(p167)。
ところで、リルケは幼少期、強烈な自我の母に女の子として育てられ、後に父親には軍人として教育されたという(p74)。
無茶苦茶である。
彼の作品にこのことは明らかに影響していると思う。
太田光一「リルケの最晩年 呪縛されていた「ドゥイノの悲歌」の完成を果たして新境地へ」 郁朋社、東京、2015