大きな本屋で見つけて衝動買い。
明治生まれの女性にして初の帝大女子入学者。
そして本邦初の女性哲学者。
ドイツ留学し、叔父の西田の論文をドイツ語翻訳。
しかし、帰国後、終戦2か月前にわずか44歳で死去。
実家は裕福な繊維業者で、現・石川県かほく市生まれ。
高等女学校卒後、東京女子大学へ。ふみは女学校時代に問題意識をもつ(p59)。
女子高等教育は男子の中学よりレベルが低く、家事・作法などの授業が組み込まれていた。
女子教育は実用的知識中心で(p27-28)形だけだと考えていた。
東京女子大で哲学に惹かれ、もっと学びたいと東北帝大に進学。
ちなみに東京帝大と京都帝大が女子に門戸を開いたのは終戦後(p84)
スピノザ研究で論文提出(p25)。
卒後は教師をしながら哲学の勉強を熱心に続けた。
とんでもない向学心に憧れを抱いてしまう。
本書から。フライブルグの書斎。後ろの本棚の本の多さよ!
死後寄贈された本は、洋書だけでなんと約千冊だったという。
1936年、岩波茂雄から奨学金を得てドイツ留学(p113)。
多くの女子大設立は訪日した米英伝道師たちによって行われたため、当時の女性の留学先は米英が普通だった。
ふみは、ドイツの物価安、友人の夫が独駐在員だったことからドイツを選択した(p114)。
大戦後の賠償金による大インフレから回復しつつあったとはいえ、ドイツはまだ貧しかったのだろう。
船内では時事問題から教育問題まで男相手に論争していた(p115-116)。また、白人による差別を見聞きし、日本人であることを意識するようになった(p116)。
寄港しつつ何か月もかける船旅は、飛行機と違って、それ自体異文化体験だったのだろう。羨ましい。
ドイツ到着後、フンボルト大学(現ベルリン大学)へ。
なんとSpranger, Eに学び、自宅にも呼ばれた(p119)。
当時の記録で、何でもいいからドイツ文化を吸収したいが時間が足りないと嘆いている(p135)。
面白いのが「ドイツ人の遊び方を知りたい」「人々の公ではない話を聞きたい」と書いていること。
こういう地に足ついた発想を、まず男はしない。
その後、フライブルグへ。
つまり、すでに<大哲学者>だったHeideggerのもとへ(p140)。
「言葉の本質について」(1939年夏)講義の出席簿にふみの名があるという(p149)。
フライブルグでは下宿先の夫人とまで論争をしている。
夫に死なれた女性は再婚してよいか。
子への愛を優先すべきというふみと、女性個人として愛を優先すべきという夫人。
深夜まで論争したという(p145-146)。
ふみもふみだが、奥さんも奥さん。
旦那さんが教師で、ご自分は近所の子供達にピアノを教えていたという、いわゆる専業主婦。
しっかりとした教育を受けた人なのだろう。
にしてもである。
ドイツ人にとって議論は一種の知的遊戯なのかもしれない。
これと関連するが、当時の英国王退位問題からヨーロッパの恋愛至上主義を批判する文章を残している(p147-148)。
私が残念なのはこの点である。
ふみの男女についての考えは英米系フェミニズムと(たぶん)同じだと思うが、母子関係については意外に保守的なのである。
ふみが長生きをして、母(なるもの)あるいは子どもの哲学とでもいうようなものを展開していたら、とても面白いことになっていたのではないかと思う。
1939年に帰国。ナチスによるフランス侵攻直前。
ぎりぎりまでドイツにいたかったのだろう。
興味深いこと;
ベルリンオリンピックの体験。
日本人選手が「勝って泣いた」ことを不思議そうに当時の現地新聞が書き立てた(p127)。<嬉し泣き>ってドイツに無いの?
痛快なこと;
(書簡から)
男は決して一人で外国へなど出すものではありませんね。私が娘をもっているとしたら外国へ一人でいって来たような者には決してくれてはやりませんね。九十九パーセントまでがそうです。日本では大学又は高等学校の教授といって威張っているような人間のするざまは伯林では見てはいられませんよ。(p204)
(同じく書簡)
男の人の教養に至っては、日本ではまるでゼロですよ。大学のプロフェッサーといっても、遊ぶ時には、匹夫野人と何らかわる所がありません。(p206)
周囲から「半分男のようだ(西田の言葉)」と揶揄された女性からの、我々への警告です。
旅の恥はかき捨てをやめましょう。
仕事ばっかりしていないで教養を深めましょう。
浅見洋「おふみさんに続け! 女性哲学者のフロンティア 西田幾多郎の姪 高橋ふみの生涯と思想」 ポラーノ社、東京、2017