詩の読み方が分かっていないことをいいことに、好き勝手に楽しむことにする。
気に入った表現だけを抜粋。
「巡礼の巻」
私は父です しかし息子よりは以上のものです
父がなり得たものすべてであり
父がなり得なかったものも 子のなかで大きくなるのです
子は胎であり 海なのです・・・・・ p22
神とキリストの詩だろうが、素朴に子どもに関する思索と思うと面白い。
「日時計の天使」
あなたはまるで気がつかないのであろうか 私たちの時間が
あなたの満ちあふれた日時計から滑り落ちてゆくのに? p73
暦時間と<私の時間>は確かに違う。
「狂人と囚人のための祈り」
夜 おもむろに一つの祈りを
お前たちから「時」が消えてなくなるようにと。
なぜならお前たちは「時」を持っているからだ p112
「時」が消えるとは、死ぬことにほかならない。
「奇妙な言葉ではないか」
奇妙な言葉ではないか 「時」をまぎらわすとは!
「時」を逃さぬ これこそが問題であろうに。 p154
原語は<die Zeit vertreiben>で、辞書では<sich die Zeit mit ~ verteiben>という慣用句があり”~で暇をつぶす”になっている。<vertreiben>は”追い払う”。
”時間を潰す”という慣用表現が、字義通りには”時間を追い払う”になるのが奇妙だということだろう。
時間は追い払えない。時間は私たちと共にある。
「お前は幼な時があったことを」
なぜなら幼な時は
彼のこころを「時」の彼方に置いていたからだ
(略)
幼な時には
守りがないのだ
(略)
ではいったい誰にできよう かばうことが?
(略)
「私なら 母親の私なら それができます(略)」
(略)
あなたがいま言われたことこそ 危険というものなのだ 世界の完全な
純粋の危険なのだ
(略)
不安はその継目から吹き込んでくる 不安はそこにある p157-158
幼い時の無防備な私たちは時間感覚をまだ持っていない。
その無防備さを守るのは母(なるもの)。
しかし、母に完全に守られることは危険なことである。
私たちは一人で生きていかなければならない。
不安を抱えながら。
「鳥たちが横ぎって飛ぶ空間は」
私たちの内部にひろがった空間が 事物を私たちのために言い換える
だから お前のために一本の樹を存在させるためには
樹の周りに内部空間を投げかけるがいい お前の中に在る
その空間にうちから。 p196-197
物を認識する時、外界の刺激を受動的に知覚しているのではなく、私たちの内部に予めある何かを投影しているのかもしれない。
だとすると、私たちは本当は「何を」見ているのだろう。
他の詩で「或る女の運命」(p77)、「老婆たちのひとり」(p89)、「老女」(p91-92)は、リルケが抱えていた女性への贖罪意識のようで面白い。さらに「肖像」(p96-98)も女優の虚無感が切ない。いずれも1907-8年の初期の詩。
初期の詩は女性をテーマにしたものが面白い。
1910年代ころから「時」に関する表現が出てくる。
1920年以後の「オルフォイスへのソネット」は名作らしいのだが、詩に対する鑑賞力が無く良い読み手ではない私には、正直、ピンとこなかった。
「呼吸よ 眼に見えない詩よ」(p172-173)は気に入った。
呼吸よ 眼に見えない詩よ
(略)
ただ一つの波よ 私は
それがしだいに集まって海となったもの
多くの風は
まるで私の息子のような
分かりやすい文章だがなんだか感動した。
詩こそ私であり、私こそ詩なのだ。
ところで、1910~20年の詩「天使に寄す」の
私がここにいるとき
あなた(注:天使のこと)が私を感じるのでないならば
叫ぶ私の声もあなたの耳に大きくなりはしないのだ
は、「ドゥノイの悲歌」の第一歌の冒頭
ああ、いかに私が叫んだとて、いかなる天使が
はるか高みからそれを聞こうぞ?
に影響を与えていないだろうか。
「リルケ詩集」 富士川栄郎訳 新潮文庫、東京、1963