タイトルに惹かれ、即購入。
面白くてすぐ読み終わった。
序章
日本で写実主義が成功したことがない(p9-10)。
「移す」には、透る、帰るの意味がある(p21)。
「移し」とは「成り変わらせる」を含む(p15)。
「移し」の美学は藤原定家や世阿弥にも見出せ(p28)、道真がもっとも見事に体現した。
一章
忘れられているが、菅原道真は第一級の詩人だった(知らなかった)。
彼は漢詩から和歌へと文芸の中心が変化する狭間にいた(p58)。
代表作の一つ、「新撰万葉集」。
この作品は、漢詩からヒントを得て和歌を作る従来の順序を逆転し、和歌から漢詩を作る構成だった(p63)。
たとえば以下。
思ひつつ ひるはかくてもなぐさめつ 夜ぞわびしき 独寝る身は
寡婦独り居て数年ならんとす
容顔枯槁して心田を敗る
日中の怨恨はなほ忍ぶべし
夜半に潜然として涙 泉となる
和歌は<寂しい>という感情しか表現していない。
ところが漢詩では事柄を具体的に描写し、現代の散文に近い(p73-74)。
大岡の表現では、和歌は「気分」、漢詩は「人間」を、描いている(p74)。
当時、意見の表明をする文章は、漢詩以外では歌集の序や説教、「記」「草」つまりエッセイだけだった(p77)。
和歌は抒情詩(だけ)だが、漢詩は叙事詩(にもなる)ということだろう(p210「大和言葉は叙事詩に適さない」)。
二章
では漢詩は叙事的なだけの文学か。そうではない。
とりわけ道真は。
愛する子を失った後の、壮絶な哀しみを詠う漢詩(p96-98)。
宮中の華やかさを、妖艶に詠った漢詩(p111-112)。
四国への左遷人事(大宰府への左遷は最晩年)を嘆く漢詩(p113)。
中国の詩の修辞を用いて、道真は情緒をうまく表現した。
三章
四国で道真が書いた「寒草十首」の紹介。
これは日本で初のプロレタリア文学ではないだろうか。
道真の漢詩のように貧困の苦しみを切々と描写することは、確かに和歌にはできないように思う。
四章
私達は、文学者は成熟すると表現がシンプルになると漠然と思っている。
しかし、道真はそうではなかった。
死ぬまで修辞的技法は変わらず(p177-178、198)、大岡はこれこそ真の意味の達観だと述べている。
また、道真は「先進国」中国の詩と格闘した。
その点で彼は、西欧文学と格闘した明治の文豪たちの先駆者だった(p183-184)。
しかも、中国の詩のエッセンスを己に取り込むことに成功した稀有な詩人で(p178-179)、いわば抒情性と叙事性を補完した(p210)。
当時、そのような詩人は彼だけだった。
その後のわが国の歌人たちは、漢詩をうまく消化できずに漢詩への劣等感を抱えたまま和歌へと移行する(p179)。
その結果、漢詩に対する劣等感から自由で、平仮名を巧みに使う女性たちが、日本文学の中心に躍り出ることになる(p180)。
こうして漢詩は急激に廃れ、和歌が覇権を奪うことになる。
本書を読んで、自身の考えを伝えるには、やはり漢語を用いるしかないのではと思い直した。
大和言葉で(を、ではない)哲学する試みもあるが無理筋のように考える。
道真個人のことを少し。
勧められて辞表を出し続けていたが握りつぶされ、「どうしても辞めない野心家」と周囲が感じるように仕向けられたらしい(p138 半沢直樹のエピソードのよう)。
道真は寒門(名門ではない)の翰林(かんりん 学者)という異色の出自で、政治に真っ当な批判を意見したらしく、「貧乏な学者風情が何を言うか」と邪魔者扱いされた(p138-142)。
道真の勉強の仕方。
学問の道、抄出(要点書き出し)を宗とす。(略)短札は、すべてこれ抄出の藁草(下書き)なり。 p83
要するに気になる箇所を引用してカードに書いておき、それをまとめた。
勉強の仕方って、そうですよね、道真公さま。
大岡信「詩人・菅原道真」 岩波文庫、東京、2020(1989)