第一章「懺悔道の哲学的意義」は辛うじて分かった(気がする)。

 メモ。文章は若干いじった。

 

理性的直観を超えた哲学Meta-Noetik, 懺悔道Metanoetikを提唱する p7

懺悔について語る「懺悔の哲学」でなく、懺悔を行ずる他力哲学。哲学そのものの懺悔が懺悔道 p26

懺悔は後悔や罪悪感ではない p9

捨て鉢になるのではなく(略)自己のあるべき存在に対する願望を持ち続けながら、それに反する自己に絶望し(略)自己が存在する資格があるという希望を絶ち(略)自己を放棄するのが懺悔 p10

自己放棄へ促す力は私を回復し、一度否定された私の存在を再び肯定する力である p10

懺悔道としての哲学が私の生活 p34

自殺という消極的自己主張でなく、生死も自己の意志で選択しない絶対の自己放棄(略)純粋な受動性で(略)死につつ生き、生かされつつ生きる転換 p34

転換は(略)新しき再出発(略)新しき能力の賦与を意味しない。(略)私は依然として無力であり(略)生かされて生きる。 p34-35

 自殺さえも、自己否定の方法として甘い述べている。

 

 第二章はカントの批判哲学の循環性(二律背反の存在)、理論理性(純粋理性?)と実践理性の矛盾分裂を指摘(p58)

 そして懺悔道こそ「分裂したままの統一」(p49)があるする。

 

 第三章は歴史性。

 ハイデガー、ニーチェ、アウグスティヌスなど引用されるが、内容がほとんどわからない。彼らの時間論を批判している(らしい)。

 興味深かったのが

(時間は)楕円や双曲線の対称性を否定して放物線の非対称性をもつ p76

 「ではない」非不Nichtこそ時間において重要という指摘(p86)

 この章のヒントは「私の懺悔道はキルケゴールの信仰に合する」(p126)だろうか。

 個人的にうれしかったのはヤスパースの引用があったこと(p110)

 

 第四章は自由論。

 カント批判まで追いかけられたが、以後がわからない。

懺悔道は、実存哲学と人間自由論とのいずれでもなく、両者の真理を総合する中道 p163

 がヒントか。

 

 第五章は絶対媒介性。

 否定から肯定への転換が「大いなるもの」に媒介されていることの論証(と思う)。エックハルトなどを引用。

 大いなるものを「絶対無」と表現しているのだと思う。それは「有」ではないのだから。

 

 第六章、第七章はタイトルの時点でお手上げ(長いので書かない)。 

 面白かったのがパスカル批判。

 自己否定を思想的に行うのは自力の行為だから矛盾しているという(p216)

 そこで出てくるのが「自然法爾」(p231)

 どう読むのかもわからない。

 Wikiで調べると「じねんほうに」で、自力を捨て如来に身を任せる(他力)こと。

 

 以後、仏教用語が氾濫する。

 ただ、自力を徹底的に捨て大いなるものを媒介にして、他力で自己が転換されるという主張は、何度も繰り返される。

 

 第八章は宗教的社会観。

 これまで引用された思想と懺悔道の比較(p272-273)

 後半の、共同体論は面白かった。

 大革命の自由と平等の併置は矛盾だと田辺はいう(p294)

 確かに自由競争は格差を生み、平等の実現のために時に自由が制限される。

 彼が注目するのは兄弟性(友愛)(p295)

 師弟ではない信頼模倣と家族的平等があるから(p295)

 そしてこの友愛の共同体設立に懺悔道が寄与するという(p314)

 

 

 時間論を読みたかったのだが全く別物だった。

 それにしてもくたびれた。

 

 

 同時収載の「死の哲学」は後期ハイデガー思想が中心で、当時最新のハイデガー論だったと思う。Ereignisにまで触れている(p364)

 こちらをしっかり読みたかったが、ホントに力尽きたのでまた今度。

 

 斜め読みで知った「実存協同」は驚いた。

 相互の愛により生死を超えた死者との共同体が実現する。

 愛における復活(p335)、生死を超えた歓喜(p337)

 愛する奥さんを亡くした後の論考であることを考えると、何とも切ない。

 

 

 ところで年表をみると「懺悔道の哲学」の元になっただろう講義(「懺悔道」)は1944年に行われている。

 

 戦後に急に転向したような、そんな卑怯な人物では、やっぱりなかった。

 

 

 

田辺元「懺悔道としての哲学・死の哲学」 燈影舎、京都、2000