田辺元が野上弥生子に勧めていたので購入。

 

 3回読んだが、難解で読み終わった気がしない。

 今のところの私なりのメモ。誤読が前提。

 

 

 第一歌:

 冒頭の悲痛な叫びは有名。 

さかしい動物たちは、わたしたちが世界の説き明かしをこころみながら

そこにはそれほどしっかりと根をおろしていないことを

よく見ぬいている。 12-13

 世界を認識し、説明する能力を私達はもっている。

 その代わりに世界との親密さを失ってしまった。

 この居心地の悪さを隠すのは

相擁することによってたがいの運命をかくしあっているだけなのだ。23

 訳注によるとただの抱擁でなくセクシャルな意味も込められているらしい。

 

 

 第二歌:

自己を確かにあるとすることができようか。 48 

おんみらが肌と肌を触れあって至高の幸をかちうるのは、愛撫が時を停めるからだ、

愛におぼれるおんみらを結んだ場所が消えぬからだ、

おんみらがそこに純粋な持続を感ずるからだ。 56-58

 第一歌と同じ。

 訳注によると、あるドイツ人学者は「結ぶzudeckt」を「手が触れる」と解釈しているという。

 zudeckは、辞書では毛布をかける、穴などをふさぐという意味と書いてあった。

 「至高の幸selig」を考えると、後者の意味ではないだろうか。

 62行からは濃厚な口づけの描写がある。

 

 

 第三歌:

 快楽の王たち(邦訳は「王」。原語は複数形)Herren der Lustは若者の内におり、乙女の前で「頭をもたげる」。

 彼らから母によって私達は守られてきた。

 しかし、私達の内には世代を超えた奔流、強力な起源の場がある。

わたしたちがたがいのうちに愛したのは(略)ひとりの子供ではなく、

崩れ落ちた山岳のようにわれらの内部にひそむ

父たちなのだ、過去の母たちの

河床の跡なのだー。 68-73

 愛の対象は、他者でなければ、その結晶でもない。

 内から湧き上がる欲望自体である。

 それは母、父の内奥にも流れていた。だからこそ、今、私はここにいる。

かつてかれが自己をはじめたことがあるだろうか begann er sich je? 25 

 私達は私達を自ずと生じさせたのではない。

 父母のもとで生まれた。

 


 第四歌:

われら人間はおおいなるものと一つに結ばれていない 2

 原文はWir sind nicht einig

 さすが手塚訳。私達は孤独なのである。

 死へと歩みつつ、是認recht(直訳は権利)されてもいいではないかと、悲痛な叫びが繰り返される。

 

 

 第五歌は最後のあたりは性的比喩だと思うし、第六歌は英雄がテーマだが、どちらも、正直、よくわからない。

 

 

 第七歌:

 私達は様々なものを造り上げたきたが、世界はどこにも存在しない。

 私達の内にしかない。

 

 

 

 第八歌:

われわれ人間の眼だけが

いわば反対の方向に向けられている。 2-3

わたしたちをこちら向きにさせて

形態の世界を見るように強いる。動物の眼に

あれほど深くたたえられた開かれた世界を見せようとしない、死から自由のその世界を。 7-10

 開かれた世界に私達はいない。世界をありのままに見ることが私達にはできない。

死をみるのはわれわれだけだ 10

 私達だけが死の存在を知っており、生、世界の限界を知っている。

観る者であるわれわれは、

すべてのものに向きあっていて、けっして広いかなたに出ることはない。 65-66

 私達は見ることで世界と関わっている、というか、そういう関わりしかできない。

 そして第九歌で繰り返されるように「一度だけein Mal」しか存在できない。

 

 表面だけは美しいこの世界から、私達は母に見守られつつ、嘆きKlage、憤怒Zornを経て、原苦Ur-Leidへ向かう。

 

 

 ハイデガーがリルケにはまった理由がよくわかる。 

 メンタルヘルス的にはある気質のヒントになりそう。

 

 

 

リルケ「ドゥイノの悲歌」 手塚富雄訳 岩波文庫、東京、1957

Rilke:duinser Elegien 1923