時間論を考えたくて図書館で借りたが、難解で何度読んでもわからない。

 あと時間の議論、あまり出てこなかった・・・

 当然、誤読しているという前提のメモ。

 

哲学は現実から遊離してしまった(p8)

正法眼藏は弁証法的哲学的である(p19-20)

 宗教で哲学を刷新しようと田邊は試みる。哲学的宗教読解ではない。

 

超越への信と内在の証とが行において相即し、超越即内在となる(p36)

 行為し(本当は修行だろう)、大いなるものを信じれば、それは内面化される。

 

絶対は遡源的に自己を現成する動的根源(p49)

 「絶対」は私達が生きていることの根拠で、大いなるものといっていいのだろう。

 

絶対を媒介にした円環的運動は原点への帰還でなく、根源を深め遡る運動で螺旋のように完結しない。なので渦旋と表現する。この運動は新しい円環を発生し、発展であり、自己を自己に包むことになる(p51-52)

 螺旋でなく渦旋という言葉はいい。

 

道元は「いわゆる有時は、時すでにこれ有なり、有これみな時なり」と述べた。これはハイデガーの主張と同じ(p62-63)

 !!!

 

経歴とは、絶対の表れとして裁断されて生じる各瞬間が、そのまま絶対的統一として連続の原理になること。非連続の連続。プラトンの「瞬間」、アウグスティヌスの「現在の現在」、ハイデガーの「脱自的統一」と同じ(p65-66)

 経歴という概念の説明。この時間論は面白い。

 

絶対は静止していない。相対は動的で、それを包む絶対は同時に自ら動く。静動一如でなければならない(p67-68)

絶対は相対を包む全体や場所などではない。閉鎖即開放な渦旋である。同一性がある静止的場所ではない(p68-69)

 絶対は相対を包むが、「全体」ではない点が重要なのだろう。

 「全体」とすると完結したものになってしまう。

 

歴史は生成即行為である(p69)

生も死も超えて、絶対が現成することを信証するのが仏道である。

生死の転換で心身は脱落する。心が身を脱落するのではなく、心と身が同時に脱落する。心と身は対するものではない。

自己心身の脱落は、同時に他者心身の脱落である(p75-77)

 絶対(大いなるもの)を媒介にしてAと非Aが合一される。

 とはいえ、Aと非Aは分裂したままなのが重要で、安易に統一(融合)としない。

 だから、A即B、B即Aという表現が繰り返される。

  

 塚原(2020)の論文で読んだのが、たとえば有の欠如が無とか、無から有が生じると道元は考えないという。

 有はその否定である無と対で生じると考えるのだという。

 まるで構造主義そのもの!

 

 また同じ論文で、道元の「空」について初めてわかった。

 「空」は有でも無でもない概念。

 私は「空」は無の別名かと思っていた。

 有でも無でもないってレヴィナスっぽい。

 

絶対的普遍の全体と相対的特殊の個体の、一即多、多即一といった統一には行為が必要になる(p80)

 日常的行動を重視するのはヤスパースぽい。

 しかし、この点が、戦争中に不幸な方向に逸れてしまった。

 

絶対と相対の否定的媒介を論じるには、神秘主義か、絶対を抽象化して相対の根拠にするしかない。前者がヤスパース、後者がハイデガーである。(p88)

 ヤスパースが神秘主義というのは、正直、よく分からない。

​​​ 嬉しいのは「注目すべきヤスパース哲学は、正法眼藏の抽象的面に相当する(p45)」という一文があったこと。

 

哲学は現実逃避してはならない。実存哲学というより現実哲学でなければならない。行為的であることが重要(p90)

 もし田邊が別の時代に生きていたらと思うし、ヤスパースの妻がもしユダヤ系でなかったら、彼はあのように行動できたのだろうかとも空想したりする。

 

 

 

田邊元「正法眼藏の哲学私観」 岩波書店、東京、1939