これも夏休みに見つけた本。

 

 久しぶりに、血沸き肉躍る気持ちにさせられた本。

 正式な訓練を受けた看護師が初めて誕生したのが1888年(明治21年)(p114)

 その第一世代の苦闘を描いたのが本書。

 上記HPに主人公大関たちの写真がある

 

 同時に、当時の女性たちの過酷な状況が良く理解できる。

 

 のけぞるほど驚いたのが、一夫一婦制が民法に明記されたのは、明治も31年になってからだった(p13)

 ということは、明治30年まで日本は”法的に”一夫多妻の国だった。

 

 

 面白かったのが、学校や病院の来歴。

 日本初の看護学校は、山川捨松が作った有志共立東京病院付属学校(p41)

 共立東京病院は現・東京慈恵会医科大学。

 

 主人公大関和(ちか)が入学した桜井看護学校(後に閉鎖)の母体桜井女学院は現・女子学院(p141)

 

 新島譲は同志社病院を作って看護学校(京都看病婦学校 後に閉校)を併設した。

 当然、八重さんも関わっていた(p69)

 調べるとお兄ちゃんの覚馬も関与したらしい。

 そして看護教育なら「東の慈恵、西の同志社」といわれていた。

 

 つまり、日本の看護師制度を整備したのは会津の山川家姉妹だった(!)。

 私のご先祖は薩摩。本当に申し訳ございません・・・・と和も捨松に謝るシーンがある (p51)。

 和は黒羽藩出身で、戊辰戦争で黒羽藩は新政府軍についた。

 

 

 会津出身の姉妹が活躍し、明治初期にbottom up式に看護師が誕生したのは、やはり戦争の影響。

 本書のもう一人の主人公鈴木雅は戊辰の役の戦争未亡人(p88)

 看護師数増加と日清(p191-194)日露戦争(慰問袋の話は素晴らしいp269-274)も関係が深い。

 

 

 それはともかく、感染した村の防疫、祝賀会での群衆雪崩対応(p256-261 「貴官の剣を貸し給え」!)、関東大震災での活躍(p98-304 D-MAT制度発足の100年前)はわくわくする。

 また一部の金持ちだけを対象にしない”訪問看護”を、当時すでに鈴木雅が始めていたのも驚く(p168)

 

 

 本書の主要なテーマではないが、佐幕派青年たちが明治初期にどう生きたかも興味深い(p34)

 ヨーロッパのユダヤ系の人々のような意味で学問・教育が重要だった。

 

 

 

 ところで、ナイチンゲールは、看護師は医師でもなければ医師の助手でもないと書いているという(p125)

 実際、当時の術後管理は看護師の腕次第で、予後が大きく異なったらしい(p134)

 当時は感染症が医療の最前線で、抗生剤はまだない。

 なので、環境整備や栄養指導が最も重要だった(p163-164,171,174-189,244-245)

 

 

 看護師は、ミニ医師のようになってはもったいないと思う。

 看護師にしかできないことがあるはずだからだ。

 感染症が表舞台から消えたために環境整備の重要性は変化したかもしれない。

 とはいえ、今回のような流行り病はまだあるし、感染症の時とは異なる意味の環境整備も大事で貴重な業務だと思う。

 

 

 

田中ひかる「明治のナイチンゲール 大関和物語」 中央公論社、東京、2023