これも夏休み中に本屋で見かけ、衝動買いしたもの。

 

 読み始めたら止まらず、2時間ほどで読了。

 本当に面白かった。

 

 第四章以後は良く知られているお話が多いのでさらっと読めたのだが、前半の、中井先生が「中井先生」になるまでのエピソードは、存じ上げないことが多くて夢中になってしまった。

 

 もともと法学部にいらしたこと。

 基礎医学研究者になったものの、当時、ブルジョア哲学といわれていた(!)というフッサールを読んでいたことがばれて破門になったこと(p3-4)

 そのために臨床医に転じたこと。

 

 ご自分では体系的にまとめていらっしゃらない風景構成法が完成するまで。

 最初は、枠づけをするだけだった(p9)

 病院に箱庭療法の道具が出来るまでの間、中継ぎで生まれたのが風景構成法だった(!p15-16)

 

 サリヴァンを翻訳するきっかけが井村先生からの勧めだったのは知っていたが、その出会いの理由(p23)

 

 伝説の「分裂病の精神病理」シリーズ、実は生物学的精神医学との架橋がもともとの目論見だったこと(p25)

 

 全ての背景に影響しているのが、学生運動あるいはインターン闘争。 

 

 

 私自身は世代的に関わりがなく、団塊ちょい上の父親はもともと保守的で、学生時代はノンポリだったそうなので、私には当時の”闘争”の意義がぴんとこない。

 だが、あの混乱があったことで中井先生が「中井先生」になったのだと思うと、その点だけで、あの混乱には十分な意義があったように思えてしまう。

 

 とはいえ、精神病理シリーズが当初の目的通りに進んでいたら、日本の精神医学のレベルはとても高くなっていたのではないかと思うと残念。

 この話が流れた理由は、当然、”闘争”。

 

 

 名著「治療文化論」執筆時の、中井先生の産みの苦しみも知らなかった。

 「うつ」という言葉まで出てくるほどだった(p38-43)

 

 

 f記憶とp記憶(p90)

 中井先生がPTSD関連の翻訳を集中的になさっていた時期のお仕事を、私は勉強していなかった。

 中井先生は、もしかするとプルーストの reminiscenceとsouvenirの違いを意識なさっていたのではないかと妄想してしまう。

 

 

 おかしかったのが、結婚してまだ1週間の新婚ほやほやの友人宅に、ボストンバックをもって泊まり込んできたというエピソード。

 夕食も一緒で、トイレまでついていって外からずーっと議論していたという(p104)

 同居なさっていたお母さまは、少し迷惑そうだったらしい。

 当たり前である。

 

 その奥様の中井先生評。

 生物や患者さんの言葉はわかるけれども、俗世間の言葉にはうまくなじめないこと、知識武装しなければならないほど繊細なこと(p105)。

 「それぞれ(夫も中井先生も)大変な人たちでしたから」

 

 

 中井先生の精神療法観。

 「今まで聞いたことのないような言葉を耳にして、その人が『なんだろう?』と考えるようにする(略)患者さんの考えを広げていく。(略)壁に釘を打つときに同じところになんべんも打ったら固定しないでしょう?別のところに釘を打つというのが大事なんです」(p128)

 

 デブリーフィングは、一般の人と特定の職能集団で、時期を変えるべきかもしれないこと(p153-154)

 

 

 

 研究者を目指したのに大学を追われ、治してなんぼの世界に浸ることになったところはフロイトのようだし、もともと法学部で学んだものの、もっと人のことを知りたいと物足りなさを覚えて転部したところはヤスパースのよう。

 

 

 同業者の追悼本はたくさんある。

 私は正直、あまり読む気になれない。

 

 不思議なことに、この本だけは、読後に「やっぱり亡くなられたんだ」と哀しい気持ちが湧いてきた。

 

 

 

最相葉月「中井久夫 人と仕事」 みすず書房、東京、2023