医学は学問だが、医療は実践(p130)。
Evidenceだけでは目の前の患者さんに対応しきれないことがある(p108)。
さらに医療現場では、時として、それは本当に科学的か?というようなことさえある(p77-81)。
本書なら、手術室での清潔・不潔の区別(第3章)。
この箇所を読んでいて思ったのが、流行り病。
昨年だったか、テレビであるクリニックの外来風景が映し出された。
そこの先生は、壮絶なまでに重装備な恰好で診療なさっていらした。
ところで、病棟で特別な感染症の方の部屋に入るときに行う対策の一つとして、ガウン・テクニックがある。
ウイルスや細菌を他の場所に持ち込まないためと、自身が感染しないためである。
私の職場では、今回の流行り病で、履物を替え、帽子、マスク(二重)、手袋(これも二重)、ガウン、アイガードまたはフェイスシールドを着脱した。
外来はパーティションが置かれ、マスクとアイガード着用が義務になった。
しかし、うちの職場のガウンの後ろ側は開いているし、外来では患者さんが伝票を入れて持ち運ぶプラスチック製のフォルダーを誰も消毒していない。
常日頃、いいのかなと思っていた。
何を言いたいのかというと、完全に清潔を維持するのは難しいということである。
だからガウン・テクニックが無駄などというつもりは全くない。
むしろ逆で、テレビの話に戻る。
あちこちにパーティションを設け、宇宙服のような防護服で外来をなさっている様子は、「医師がこんな格好をしないといけない病なのだ」と思わせる、いかにも不安を煽る映像だった。
で、私の素朴な疑問である。
あの先生は、流行り病陽性の患者さんの診察後、どうなさったのだろう。
というのも、理屈では、陽性者の診療後、着ていた宇宙服のようなものを脱いで新しいものに替えないといけないからである。
でないと、次の患者さんが陽性ではない方の場合、流行り病をうつしてしまうかもしれないし、周囲のスタッフに対しても同じだ(交差感染という)。
そして、おそらく、そのようなことはなさっていないように思われた。
何しろ本当に宇宙服のようで何着もあるようには思えず、使い捨てにも見えず、またその着脱だけで時間がとんでもなくかかりそうだったからだ。
私は、ガウン・テクニックを頻繁にする立場ではなかったのでなかなか慣れず、もたもたして、いつも数分は必要だった。
要するに、あの先生はあの格好で誰を守ろうとなさっていたのか、どうお考えなのだろうと疑問に思ったのである。
くだんの先生を非難しているわけではない。
私が専門外なだけで、間違っているのかもしれない。
ただ、こういう映像を流すテレビ局の意図については大変に腹がたった。
マスクも同じ。
マスクをしろと言われ続けたが、マスクを交換しろという要請はあっただろうか。
私の職場ではマスクを毎日交換し、捨てるときは外側を内に裏返して丸めていた(いる)。
しかし世間では、同じマスクをしている方がいた(いる)。
あれだけ騒いでおいて、こういうところに注意喚起はないのだろうか。
つくづく不思議である。
医療は実践で、学問的厳密さと相性が悪いことがある。
そこは腹を括るしかないところなのだが、テレビや新聞はそういう点は伝えてくれないのだなと思う。
ついでに為政者も、である。
磯野真穂:医療者が語る答えなき世界 「いのちの守り人」の人類学 ちくま新書、東京、2017