「幼年時代」から「或る少女の死」が大変に面白かったので、最晩年の作品を読んでみたいと思って購入。
裏表紙に「犀星の理想の”女ひと”の結晶」である金魚と、老作家の対話で描かれた小説とあった。
面白そうではないか。
当時、犀星は70歳前後。
”金魚”は、幼さの残る少女といった趣だが口は達者。
丁々発止の言葉のやり取りを老作家=犀星は楽しんでいるよう。
老齢になると、重たい内容に入り込まず理屈っぽくもなりすぎない程度の、飄々とした言葉のやりとりをができる賢さをもつ女性が好みということかな・・・と思っていると、そういう単純な話でもなさそう。
何しろ、金魚とキスをするし、“子づくり”をするしないの話も出てくる。
前半には、「七十になっても(略)性欲も(略)あるもんなんだよ」「心臓も性器もおなじくらい大切なんだ」(p69)などの台詞がある。
「年をとると、本物だけになって生き返るところがある」ので若い女性がよくなる、なぜなら「こちらが少年になっているから」(p70-71)だそうだ。
そういうものなのか。ふーん。
後半から(p78-)、犀星が何らかの想いを引きずったままの女性たちが現れ、”金魚”は出会いの仲介役になる。
ちょっと違うかもしれないが、”永遠の女性”への仲介者だった「ファウスト」のグレートヒェンのようでもある。
「われはうたえども やぶれかぶれ」は闘病記。
夜間に排尿が出来ずに苦しんでいるところから始まるのだが、それが延々、9頁ほど続き、「俺はいったい何を読まされているのだ」という気持ちになる。
参考になったところ。
尿閉がひどく、尿道カテーテルを挿入されることになる(p245-248、258-272)。
これが「困難苦渋な排尿のほうがまだらく」(p259)なほどの猛烈な痛みで、犀星は身の置きどころがなくなる。
一気に食欲がなくなり、眠りも浅くなる。
そして、受け取った金をまだ受け取っていないと騒ぎ出したり、見舞客が誰だったかを忘れてしまったり、三度見舞いにきている知人がまだ一度も顔を見せていないと不平を言うなど、記憶が混乱するようになる。
さらに娘さんの顔が「すぐそこにあるのに、遠くにいる視覚の混乱」まで出てくる。(p260)
これらはカテーテルが抜けると突然に収まり、食欲もすぐに戻る。
この混乱している様は、いわゆる「せん妄」に近い、あるいは軽いせん妄なのではないかと推測される。
患者さんからすると、このように体験されるらしい。
ところで医療というのは奇妙なもので、スタッフは大体自分が経験したことがないことを患者さんに強いる。
そして、知りもしないのに「辛いでしょうが我慢してください」と簡単に口にする。
しかし、患者さん側からすると、時に、冗談ではない、こんなに苦痛だと思わなかった、になる。
犀星が入れられた1960年代当時のカテーテルは、おそらく現在のものより太いと思われるので比較はできないが、尿カテではなく胃カメラを初めて飲んだ時、私は二度とこんなものはしたくないと思った。
嘔吐反射に苦しみながら、無理やり開口されているのでだらだらと流涎するのを放置しなければならない屈辱と、胃に空気が送られることで生じる膨満感と痛みと、どうしても我慢できない逆流する空気に涙しながら、こんな苦痛を患者さんたちは我慢しているのかと、まず愕然とする。
そして、私より年下の医師が軽やかに左腕を動かして胃カメラを進めながら、私の胃の内壁が映っているモニターに顔を向けたまま、「はーい、げっぷしたくなるけど我慢してくださーい」と軽い口調で言う。
私は開口したままなので「ああいあいた(わかりました)」と辛うじて返事をし、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったまま「げー」とげっぷをするのである。私は内心、「おめーはこれを受けた経験があった上で、そういうことを言っていっているのか?」とちょっとした憎しみを覚えたものである。
それ以来、検査や処置が辛かったとおっしゃる患者さんに、「ねー、我慢しろって、自分も受けてみろってことですよねー、おかしいですねー」と心底言えるようになった。
ところで、作中、宇野浩二の大人ぶり、大物ぶりが描かれていた。
私が読んだことのある宇野の作風とだいぶ印象が違ったので、とても興味深かった(p249-255)。
犀星の中期の作品を読むべきだった・・・・・というのが、読後の率直な感想。
しかし、室生犀星ファンなら、もちろん一読の価値あり。
室生犀星「蜜のあわれ われはうたえども やぶれかぶれ」 講談社文芸文庫、東京