仕事で「行人」「彼岸過迄」「こころ」を一気に再読。
「行人」「彼岸過迄」は「こんな内容だったけ」と己の記憶の曖昧さに驚く。
というか、年齢によって印象に残る場所が変わるのだろう。
両者に共通するのは「考えるのではなく・・・」という点。
もう一点、改めて今回感じたのが、重要な意味を持ちそうなのに、sexuality、もっというと”能力”に、三作品ともにまったく触れていないこと。
漱石の自然主義嫌いも影響しているかもしれない。
しかし、私の考える自然主義で描かれる自己(男)中心的な観点からの”性の問題”より、もっと本質的なことのように思う。
三部作を読んでいるうちに面白くなって、ついでに「門」も再読。
私にとって、宗助と御米さんは理想の夫婦像だった。
(過去形なのは、まあ、いろいろな事情で)
宗助は大事な決断を先延ばしする傾向が、確かにある。
しかし、この夫婦はどんなに些細なことでも互いに言葉を交わし続けている。
屏風をいくらで売るかの件など、なんとも微笑ましい。
突然体の調子が悪くなった御米さんの枕元に呼ばれた宗助。
「貴方ちょっと」という御米の苦しそうな声が聞こえたので、我知らず立ちあがった。(略 御米が自分の手で痛みのある個所を押さえているところに)宗助は殆ど器械的に、同じ所へ手を出した。そうして御米の抑えている上から、固く骨の角を掴んだ。(p123)
御米に呼ばれた宗助は、無意識に(「我知らず」「殆ど器械的に」)彼女をケアする。
心底、彼女のことを大事にしている。
ラスト近くに宗助が悩んだ挙句に鎌倉に行く直前。
地味な宗助とハイカラな鎌倉とは殆ど縁の遠いものであった。(略)御米は微笑を禁じえなかった。
「まあお金持ちね。私も一緒に連れて行って頂戴」といった。
(宗助が遊びに行くのではないのだと説明すると)
「そりゃ違いますわ。だから行ってらっしゃいとも。今のは本当に冗談よ」(p199)
冗談を言いあい、相手の反応によっては気遣ってすぐに訂正する。
道義上の罪をおかした彼らは、2人きりで生活する以外に生きる術がないのかもしれない。
しかし、社会の片隅で慎ましやかに過ごし、互いをそっと思いやる関係は、私にとって理想なのである。
長谷川先生のご著書で、タイトルの「門」は、漱石がニーチェから引用したことを知った。
おそらくこの箇所。
この門は(略)二つの道がここで出会っている。(略)この門の名は「瞬間」である。(略) (岩波文庫「ツァラトゥストラ」下p20-21)
永劫回帰の箇所だが、門に書かれた「瞬間」が重要だと思う。
宗助も御米も、ある刹那、目前の二つの道のどちらを進むか決めなければならなかったし、これからもそうなのだろう。
それは悔悟を残すものだったし、これからも残すかもしれない。
社会的地位を得ることや経済的に豊かになること、子供に恵まれる生活は得られなかったし、今後も無理なようだ。
しかし、その代わりに宗助と御米が得たものは、とても尊いものではないかと考えるのは、あまりに彼等を理想化しずぎだろうか。
夏目漱石「門」「行人」「彼岸過迄」「こころ」 岩波文庫