葛飾北斎の娘応為(おうい)、本名栄の伝記。
レンタル屋でなんとなく借りた「百日紅」が面白く、もっと知りたくなって購入。
応為は出生年不明、いつどこで死去したかも不明。
「百日紅」では勝気な女性として描かれていたが、本書を読むと勝気を通り越して、なかなかの女性だったよう。
ちなみに筆名応為は、父親がいつも「おーい」と呼んでいたことが由来らしい(p81)。
北斎らしいと思うし、それを受け入れる娘もさすが北斎の娘。
北斎が住居を一切掃除せず、住めなくなるほど汚れるとそのまま放っといて住まいを変えたため、約90回も転居を繰り返したことは有名だが、彼女もついていったのだから、汚れた部屋に構わず一緒に住んでいたことになる。
つまり応為は、掃除や洗濯などをほとんどしなかった(p62)。
父娘で一心不乱に絵を描き続けた。
「百日紅」でたばこを吸っていた応為が、父親の下絵に吸い殻をうっかり落としてしまうシーンがあるが、これは実際にあった話らしい(p11)。
北斎は、酒もたばこも一切やらなかった。
一方の応為は、昼間から酔っぱらっていることがあった(p62)。
一回だけ結婚したもののすぐに追い出され(p61-62)、以後、ずっと「親父どの」と二人暮らしだったというから、男女比が男に異常に偏っていた当時、男が尻込みするような女性だったのだろう。
北斎は90歳まで生き、死の直前まで絵を描き続けたといわれている。
しかし、晩年の北斎の作品にある落款は、字としてほとんど形をなしていない。
まともに字を書けない北斎が、果たして絵を描けたのか。
檀さんは、父親の手伝いをしていた娘は、やがて共同作業をするパートナーになり、北斎晩年の頃には、応為が父親の代わりに描いていたのではないかと、画風や色使いから推測なさっている(p110-112、第六~七章)。
おそらく、その通りだったのではないかと思う。
興味深かったのが、北斎の熱心な研究ぶり。
山水画、琳派、南画のみならず、銅板画まで貪欲に学んだ(p70-80)。
莫大な収入があったはずなのに貧乏生活だったのは、画材や研究のための収集に金を惜しまなかったからだという。
何かを創り出す人は、同時に熱心な収集家なのだろう。
音楽家さんが古今東西の録音を集めて聴きこんでいたり、歌舞伎俳優さんが昔の舞台のフィルムを集めているのを見聞きする。
なるほどと思ったのが「影」。
日本画には影がない。
日本の絵画は屏風の模様から発展したもので、薄暗い日本家屋では、屏風に光を反射させることで、室内を少しでも明るくさせる必要があった。
そのために背景を白または金地にし、影のような余計なものは描かなかないのが伝統になったのだという(p76-77)。
銅板画を学んだ頃の北斎は、伝統を壊して影を描きこんでいる。
ただし、一時期に留まり、その後は影を描いていない。
もう一つ興味深かったのが、応為が自分らしさを発揮する時期のこと(第八章~)。
応為の絵の特徴は、手掌から指にかけての描写の繊細さと、ほつれ髪を必ず描くことだという(p37-38)。
ほつれ髪への注目は、同じ性だからこそ気づいた細やかさなのだろう。
一方で、画面構成は父親ほど巧みではなく、「垂直への志向」(p86)、つまり棒立ちのような人物像(p35)になってしまう傾向があった。
彼女は一時期、北斎のゴーストライター的存在だったわけだが、彼女には彼女なりに描きたいものがあった。
それが先に触れた影。
彼女のもっとも有名な吉原の絵を初めて見た時、本当に江戸時代の人が描いた絵!?と驚いた。
「吉原格子先之図」
私はこちらが好き。「夜桜美人図」
主役はまさに「影」。
北斎は伝統を学び続け、時に伝統外にも手をひろげて、北斎らしさを生み出した。
その娘は、その伝統外に自分が描きたいものがあると、自分らしさを見出した。
<新しさ>にすぐ飛びつくのではなく、伝統をじっくりと学ぶことを通じてこそ、自分らしさを見出すことができるのだと改めて認識。
落ち葉ひろい。
「北斎漫画」は、人に教えるのが苦手だった北斎が、お手本集として出した”教本”だった。
漫画は「漫然と描く」という意味(p82-83)。
「略画早指南書」で北斎は、全てのものは円と線で説明できると述べているという(p60)。
残念なのがタイトル。
北斎に「なりすました」では、応為が気の毒ではないだろうか。
応為は、愛する「親父どの」の代わりを喜んで務め、その死後、まだ少数だった女流絵師として、自分の個性を発揮して活躍していたようなのだから(p152-154)。
檀乃歩也「北斎になりすました女 葛飾応為伝」 講談社、東京、2020