仕事に関係しそうなので、考えたことだけ。

 

 

 本書は、古事記上巻のいくつかの説話から日本人の精神構造を解き明かす試みで、北山先生の「見るなの禁止」を、一般向けに概説しているもの。

 

 なるほどと思ったのが、イザナミとの約束を破ったことに対してイザナキが負うべき罪が、古事記には書きこまれていないという指摘。

 日本のほかの異類婚姻譚も、概ね同じ構造だという。

 

 

 読んでいて考えたこと。

 

 妻が三人目の子を出産する時、私は上の子たちの時と同じく立ち会っていた。

 妻は年齢的に高齢出産になっており、難産ではなかったが、出産後の妻は今まで見たことがないくらいの疲弊ぶりで、私は大変にショックを受けた。

 同時に、強い罪悪感が湧きおこり、もう二度と妻にこういう思いをさせてはいけないと考えていた。

 ただ、この感情をどうすればいいのかわからず、大変に困惑した。

 というか、今でもわからない。

 

 「こんな思いをさせてごめん」と謝るのはおかしな話だし、ただ「よく頑張った」と妻に声をかけながら、ぼんやりと、もともと予定をしていなかったが、4人目の子どもは無理だ、これ以上負担はかけられないというようなことを考えていた。

 

 

 かつての日本人、私達の祖先も同じだったのだろうか。

 

 本書では、イザナミの出産死に対する罪悪感からイザナキは目を逸らしたが、イザナミの死を直視して弔うことが、これからの日本人の精神的課題だという結論になっていた。

 

 しかし、自分に引き寄せると、この結論は釈然としない(もちろん妻は死なずに無事だったが、そういうことではない)。

 

 先にはっきりさせておきたいのは、私が「逃げなかった」とか「踏みとどまった」などと言いたいのではない。

 ただその場に居合わせ、自然に湧き上がった感情だったので、逃げなかったも踏みとどまったもない、そんな立派なことでない。

 

 

 私が釈然としないのは、この罪悪感が、誰に対して、何に対してなのかがわからないのである。

 

 高齢出産だったので、いろいろな検査が必要だったし、ある種の選択を迫られることもあったが、二人で話し合って産む(正確には妻に産んでもらう)ことにした。

 妻は3人目だから、もうだいたい分かっているから大丈夫と言ってくれていたし、上の子供達も含め、みんなで生まれてくるのを楽しみにしていた。

 だから罪悪感が入り込む余地はないように思える。

 

 あえて言えば、妻だけが一晩、”死ぬ思い”で苦しみ、私にはその苦しみがないという非対称性だろうか。

 確かにそういう一面はあると思うが、それだけではないように思うのである。

 だが、それをうまく言葉にできない。

 

 しかもこの罪悪感はそれなりに強いらしく、あの時の風景を思い出すと今でも浮かんでくる。

 とはいえ、申し訳なくて誰かに謝りたくて仕方なくなる、というほどの強さではない。

 

 

 この「産まない性」特有かもしれない罪悪感は、簡単に解消できないのではないかというのが、今の私の直観であり、これが私にどう影響しているのかも、よく分からないのが正直なところである。

 

 

 それから、この感情は果たして日本人特有なのだろうか。

 古事記に描かれ損なった、宙に浮いているようなこの罪悪感は、聖書ではどう扱われているのだろうか。

 ひょっとすると、彼らのいう原罪は、このことだろうか。

 

 私達は、母を”苦しめて”生を受けた。

 当然、私達はそのことを最初は知らない。

 自分が子をなす時になって、母を苦しめていたことを事後的に知る。

 生を受けたことを謝るのはおかしい。この罪悪感は宙づりになる。

 さらに時間的にも母の苦しみを後になって知るので、もう取り返しがつかない。

 二重の罪悪感になるのかもしれない。

 

 

 1点だけ。

 北山先生は、母からの愛と罪の有無から、「イザナキ的男」「大国主的男」(p228)の2つにわけていらしたが、私は「スサノオ的男」をもう一つ入れてもいいのではと思う。

 

 

 

北山修+橋本雅之「日本人の<原罪>」 講談社現代新書、東京、2009