先日、ラジオか何かである方のお話を聞いて驚いた。
ある大学で授業後にアンケートをとったところ、少なからずの学生から「知らない話を聞かされて腹が立った」という回答があったという。
この話を紹介なさっている方も驚かれていたが、私ものけぞるほど驚いた。
大学は、というか高校は、というか中学は、というか小学校も、自分が知らないことを教わる場ではなかったのか。
いつから、知っていることを”確認する”ことが”勉強する”という意味になったのだろうか。
狐につままれたような心持で茫然としていると、若者心性に詳しいその方は、知らない話をされると”マウントをとられた”と思うのでしょうと、解説なさっていた。
なるほど、知らない話を聞かされると、話し手が自分の知識量の優越を”誇示”しているように感じるということだろうか。
一瞬、納得しかかったものの、いや、そもそも学校は、こと知識量については非対称な場であることが普通ではないかと思い直す。
また、誇らしげでなくても(誇らしげでもいいと思うが)、「面白いでしょう!」「わかった?」という態度を教師はとるかもしれず、それは誇示と表面的には似た言動かもしれないが、喜びの共有や確認作業であって本質的には違う。
その違いもご理解いただけないのかと思い直す。
さらに「訳が分からないけど、なんだか面白そう」という知識もあるではないかと思い直す。
というか、学問の愉しみは「こんなにも分からないことがあるのか」という驚きと、「分からない」ことが「だんだん分かってくる」快ではないのか?
どうすればいいのだろうと、運転中だったのだが気もそぞろに考え始めていた。
さらに、TwitterやLine、TikTokなどが隆盛になり、ブログが流行らなくなったのも同じ理由ではないかと、その方は指摘なさっていた。
自分なりの意見や考えを書くと「偉そう」「ひけらかしている」と捉えられてしまうということらしい。
それより、瞬間的な面白さを共有することが、ネットでは主流になったと解説なさっていた。
なるほどなあと思う。
と同時に、瞬間的な感情(怒りや嫌悪)の共有も主流ではないかなと、意地の悪い私はちらっとだけ思った。
昔、ここに書いているようなことをノートに手書きしていた。
しかし、テーマ別に分けるのが大変で複数のノートに書き分けているうちに紛失したり、書くこと自体も大変なので、いつの間にか、その習慣がなくなった。
Wordに書いてデスクトップに置きっぱなしにした時期もあったが、定期的にHDを整理する際に廃棄していた。
ブログは、きれいに分類されて保管できるし、自分で読み直せる。一種のクラウドなので、メモリーも食わない。
一人で書いていても「誰かに向かって書ている」という体裁にしないと、読み直した時に意味の通らない断片になってしまうので、形式としてはこういう文章にせざるを得ない。
ブログは、書きながら考えを整理し、時間が経ってから自分の考えを再確認できるので、とてもいいプラットフォームだと思っている(気晴らしにどうでもいい日記風メモも書いているが)。
とはいえ、ここに何かを書き終わった後、偶然、お読みになったどなたかが、”マウントをとりやがって”とお感じになっているかもしない。
全くそのような意図はないので(匿名では”マウント”を取る意味がないと私は思っている)、ご寛容のほどを。