時間を作って日仏会館へ。
遅刻してしまったので、途中から。
19世紀後半~20世紀のフランスでは、「出版」することは作品の「死」であるという考え方があった。
フローベル然り。ヴァレリー然り。
ブランショもこの議論を引き継いだ。
若い頃のバルトは、書く欲望を抱えつつ、出版社からの依頼原稿を書く機会しかなかった。
書きたい。しかし、自分が書きたいものではない。
しかも、編集者からの注文(≒服従)に依るもので、書くことが金銭と交換される。
バルトは羽ペンで原稿を書いた。
それは一種のカリグラフィーだった。
彼の手から離れた草稿は、印刷という”技術”と、注文・販売という”資本”に取り込まれていく。
バルトはこれに対して、裏をかこうとした。
たとえば、古典劇全集の解説文を依頼された時、担当分のラシーヌについて、酷評する解説を書いた。
当時の読者は度肝を抜かれただろう。
1960年代に定職を得ると、バルトは依頼を選ぶようになり、個人的繫がりのある知人の作品の書評や序文などを書くようになる。
バルトの単著は講義録以外、依頼原稿で構成され、唯一の例外が「恋愛のディスクールの断章」だった。
コンパニョン先生は、バルトを考える上で重要な語としてforfaitをあげていた。
この点は詳しく書かない。
ともかく彼は、依頼されたものを書かず、依頼されていないものを書いた。
このことをバルトは「テクストの快楽」で自ら論じている。
ecritureはperversionであり、l'amour sans procreerで、何も生み出さない。
依頼されながら依頼されたものを書かないこと。
それは、編集者に対するサディズムでありマゾヒズムでもあり、彼にとっては苦しみの中にいながら、悦の中にいることだった。
バルトが書こうとした小説のタイトル Vita Novaについて。
Novaに別の意味があることが、バルトにとって重要だったのではないかと、コンパニョン先生は指摘なさっていた。
最後に、バルトは書きたいものを、実は書いていたのではないかとも指摘されていた。
「明るい部屋」はcahiers du cinemaからの依頼だった。
バルトは、相変わらず依頼と無関係な文章を第一部で書いているが、第二部から、最後まで明示されない母の写真について、大変な熱量で書いている。
質疑では「テクストの快楽」はバルトにとって転回点であるとおっしゃっていたことが記憶に残っている。
<感想のような思い付きのような>
書くことの快はいくつか次元があると思う。
1 書くことそのもの(カリグラフィックな快楽 日本人にとっての習字)
2 文章として表現する(思考をまとめる快楽)
3 表現したものを読んでもらう(思考内容を承認される快楽)
コンパニョン先生のお話だと、バルトには3の快はなさそうだが、1と2については、ご講演では少し混同されているように思った。
それから、2.5とでもいうべき次元がありそうな気がする。
広く読まれたいとは全く思っていない。
しかし、反応があれば喜びがあり、全く読まれなくてもいいとも思っていない。
バルトやプルーストはそうだったのではないかと勝手に思っているのだが、よく分からない。
相変わらず私には居心地の悪い、きれいな夜景の中、仕事にどう関係するかを歩きながら考えていた。
メンタル(脳)の問題で過剰に書く方がいらっしゃるくらいしか思いつかない。
一つは側頭葉の問題で、ほぼ快が無く、内容に広がりがない。もう一つが前頭葉の問題で、広がりがないどころか同じ文章の繰り返しだったりする。
後は、ドパミンが枯渇する病気の方にドパミンを持ち上げる薬を使うと、熱心に書きものをされる方がいたり、ドパミンが亢進する病気の方から小説や詩を渡されることがあるくらいだろうか。
治療と結び付けたいのだが、今のところ連想がわかない。
なんだか残念。
アントワーヌ・コンパニョン「ロラン・バルトが書かなかった本」 於・日仏会館