立教大学で行われたWS。
演者はジャン=フィリップ・ピエロン先生。
ご講演内容は引用禁なので、ここには書かない。
ぼんやりと考えていたことだけを備忘録的に。
フランスのケア論は、フランス国内の思想の流れを知っておかないと誤解するかもしれないのは、どこかで書いた通り。
私にとって今回のご講演の一番の収穫は、共感を考えるヒントをもらえたこと。
フッサールと異なるピエロン先生のご指摘は、類似の先行議論があるのだろうか?
哲学や思想に疎い私にはわからない。
このテーマで考える入口がまだあることに、とてつもなく驚いた。
面白かったのが、質問なさった先生は「共感」という言葉を使われ、その場で流調に翻訳なさった渡名喜先生がcompassionと(だけ、たぶん)訳され、ピエロン先生のお返事が、ある種のセラピーについてと宗教的な内容になっていたこと。
もし渡名喜先生がempathieと訳されたら、どういうお返事だったのか、個人的には興味がある。
別の質疑はケアの非対称性について。
ピエロン先生のお返事は2つ。
1つは現象学的なもので、ここには書かない。
もう1つはいわば常識的なもので、人は条件によってケアを受けたり与えるものになりうるというお返事だった。
たとえば、私が風邪をひけば妻がケアしてくれるし、妻が風邪をひけば私が、妻ほど行き届かないにせよ、何らかのケアができる。
この時、私がぼーっと考えていたのは2つ。
ケアが家族関係を”原点”とするならば、時間軸を伸ばすとどうなるかと連想。
一つはいわば垂直なもの。
親は子をケアする。しかしその子自身がやがて子をなして親になり、次に自分の子をケアする。そしてその子はまた親になって自分の子を・・・・という繋がり。
(・・・親 → 子/親 → 子/親 → 子/親・・・)
つまりケアする、ケアされるは、受け継がれる。
こういうことを書くと、子がいない/できなかった人への差別だと言われそうなのだが、ここでの”子”は後輩、部下、生徒に置き換えてもいい。
もう一つは円環的なもの。
親は子をケアする。しかし成人した子は高齢の親をケアすることになる。
(親 → 子/成人した子 → 高齢化した親)
つまりケアされたものは、いつかケアする側にまわりえる。
これも、事情により親をケアできない家庭を差別するのかと言われそうなのだが、”世代”に拡張すればいい。私は1940年前後に生まれた方にケアされて育った。両親だけでなく、近所のおじさんやおばさん、親戚、学校の先生方なども含まれる。そして成人した私は、その世代で現在、何らかのご不自由さでお困りの方をケアできる。
というか、こういう”言い訳”を一々思い浮かべてしまうのは、言葉や考えを<文字通り>にしか受け取っていただけないことがあるのを見聞するからだ。つくづく窮屈な世の中になったと思う。
そもそもケアを受動・能動だけで考えられるのか。
誰かにケアを”与える”ことで、”与えられる”自尊心というものもあるからだ。
これが病理という形であらわれる場合がある。
マラン先生も受動性を強調するべきではないというご議論だった。
なぜこんなことを考えたかというと、垂直は<治療者の育成>、円環は<治療関係の相互性>を考えるヒントになると思いついたからだった。
いつも思うが、仕事につながるものは、いろいろなところに転がっている。
ワークショップ「フランスにおけるケアの哲学/倫理学の現在」 於・立教大学