新幹線の車中とホテルで読了。
第一部は、現在の医療・ケアの問題点。
私たちは、人生の苦悩まで病気とされかねない、単純化された生命理解の時代を生きている(p21、53、60)。
かつて健康は「器官の沈黙」(カンギレウム)とされた(p76-77)。
たとえば、私は腰について意識したことはなかったが、腰痛に悩まされるようになってから、自分の腰の状態を気にするようになった。
健康とは、自分の身体について格別意識しないで済む状態、ということである。
一方、医学の発展で、健康な時点から自身の身体に配慮することが求められる時代になり、そのことの弊害が指摘される(p73)。
第三章はケア倫理について。
ケア倫理は「男の道徳」vs「女の道徳」として提唱されたが、新たな男女区別(差別)との批判から、「自律の倫理」vs「相互承認の倫理」にreviseされた。
しかし、自律倫理が染みついた西欧で、相互承認の倫理が本当に受け入れられているかとマラン先生は問う。
さらにケア倫理は、個人の脆弱性を前提としている。
脆弱性の重視は、先に指摘のあった過剰な自己への集中につながるのではないかと問題提起される。
またフランスでは、ケア倫理がcare giverの権利擁護の理論的支柱になったらしい。
しかし、ケアには、必要とする人と与える人の非対称性がある。
さらにcare giverの主観が、左派陣営の主張する「不当な処遇を受けている」という単純なものかとマラン先生は疑問を呈する。
むしろ仕事にプライドをもっているかもしれないではないか。
こうした権利擁護に落とし込んだ議論は、ケアの繊細な関係を破壊するのではないかとマラン先生は鋭く指摘なさる。
加えて、権利擁護の影に隠れた問題もある。
自身が選択したわけではない、家族が「せざるをえない」介護ケア。
もう一つは、繊細な扱いが必要なケア(たとえば障害者の性処理)。
第二部は治療の批判的検討。
第一章は治療の暴力性。
病人は、病と治療という二つの暴力の狭間にいる。
しかも、一人の人ではなく、<病と闘う場>として扱われる(p148)。
アンジュ―は「私の治療をする者は、私の皮を剥ぐ者である」と喝破した。
検査、処置、手術。様々な形で病者は内面を他者にさらす。
物理的侵襲性だけではない。
画像検査は、本人の預かり知らぬところで臓器を評価される。
メンタルヘルスでは心的内面まで探られる。
さらに「コンプライアンス」という言葉に象徴される、治療者への従属が前提となる関係性、制度的不平等など、明示的ではない暴力性もある。
しかし、ここで議論が終わってしまっては、しばしば日本でも見かける単純な医療批判に過ぎない。
マラン先生の真骨頂はここからである。
この種の議論は危険な方向、非科学的で反医学的な方向に進みがちだが、もちろんマラン先生は、そのよう浅薄で考えの足りない方向に進まない。
第二章が治療者の苦悩。
治療者の暴力性は、そもそも医学が持たざるを得ない暴力性であり、医学教育の中にすでに胚胎している。
治療者は、医学教育の過程で、意識しないうちに暴力性を帯びてしまう。
また、病と治癒という自然現象は、本来、不確実なものだ。
しかし、第一部で指摘された過度な医学化の弊害で、治療者は過度な治癒の期待にさらされることになった。
これはあまり知られていないだろう、意外に多い治療者の燃え尽き問題につながる。
さらに表立って語られないことも指摘される。
治療者がなぜ「治療者になる」ことを選んだか。
しばしば誤解されるのだが、治療者になる理由は<名誉><経済>ではない(だけではない)。
「治療者は自らを癒すために他者を癒す」(p221)
だからこそ、治療者も自身の可傷性、その反動としての誇大性などに注意が必要になる。
最後に、治癒が望めない時の治療とは何か。
認知症や癌の末期、慢性疾患など、治癒が期待できない場合である。
ある種の感染症のように、比較的容易に病前に戻るという医療モデルは過去の遺物であり、治療者の間では常識である。
では、そのalternativeとしての医療とは。
すぐれて新しい「実存哲学」だと思う。
クレール・マラン「熱のない人間 治癒せざるものの治療のために」 鈴木智之訳 法政大学出版局、東京、2016
Marin C:L'Homme sans fievre. Colin, Paris, 2013