科研費によるシンポジウムで日仏哲学会の共催。

 質疑の一部のみ備忘録。

 文責はブログ主(主な発言主のみ記載)。

 

 

 ガタリの強度概念:

→ ガタリは感性的なものとしている。つまり、色合いや感情など。観念は不明。

 (山森先生)

 

 

 フランス現代思想におけるイェルムスレウ:

→ ラカンがソシュールやヤコブソンから思考したアンチとして、新たな参照枠になった。

 イェルムスレウ言語学の限界から、デリダは「原エクリチュール」、ガタリは「強度」を見出した。D&Gの「器官なき身体」もそうかもしれない。

 (質問者の方+平田先生) 

 

 

 フランス現代思想という枠組みを外した時のイェルムスレウ言語学の意義:

→ 媒入catalyse(直訳:触媒)を繰りかえすことで、テクストの複数性へ開かれる。

  既存の言語学が扱ってきたsubstance<実質>のさらに下位に、matiere(アクサン・グラーブ略)<素材/質量>があると概念化した。

  たとえば、同じpでも、英語の<実質>としてのpと、フランス語の<実質>としてのpは異なる可能性がある。

 言い換えると、<実質と>してのpを、媒入で<素材/質量>まで把握できるとしたことで、言語学を拡大した。

 (平田先生)

 

 

 媒入や換入commutation(直訳:入替)によって得られる<素材/質量>に、デリダはあまり触れなかった。

 (小川先生)

 

 

 デリダは既存の言語学を、言語をある種限定してしまう学問と考えていた。

 外にある多様なものは、デリダにとって無意味ではない。

 そこを拾おうとした点で、デリダにとってイェルムスレウは重要だった。

 (小川先生)

 

 

 言語の起源について:

→ デリダにとって分節は「常に既に」ある。

  デリダはアモルファスなものに遡ろうとしない。

  だからイェルムスレウのmeningに触れなかった(?おそらくそのようにご発言)

  デリダの内在平面(?聞き取れず)・器官なき身体批判と関連するだろう。

 (小川先生)

  

→ イェルムスレウは素材/質量から言語が発生するという線形的因果を、おそらく考えていない。

  つまり、まっさらな素材/質量は想定されていない。

  複数性の媒介として素材/質量があると考えた方がいいのではないか。

  彼は経験主義であり、経験している言葉から思考を出発させた。

  シニフィアン・シニフィエの言語学を出発点として、別の言語学の可能性を探った。

 (平田先生)

 

 

 その他、ドゥルーズとガタリの発想の違い、ガタリの役割、記号論と言語論の違いなどのご議論もあったが、私の仕事とは関連があまりないので略。

 

 

<印象や感想など>

 一定頻度、一定時間、寝椅子に横たわり、かつ言葉のやりとり主体で、とても揺さぶられる体験である精神分析を、統合失調症の患者さんに行うことは概ね不可能。

 なので、統合失調症患者さんを診ていたガタリが、精神分析から組み立てられたラカンの精神病の議論に批判的なのは自然で、むしろラカンの方が力技なのだと思う。

 ただガタリを読むと政治/コミニュニズムの話が入り込み、そこに1960年代という時代的制約や古臭さを感じていた。しかし、最近は、治療の非対称性や暴力性に敏感になって考えていくべきと考えるようになった。

 イェルムスレウの形式・内容・表現・実質の区分は、参考になりそう。

 

 平田公威先生訳で、イェルムスレウの本が出版されるという。

 また勉強すべき本を見つけた。

 

 

 

日仏哲学会共催「イェルムスレウとフランス現代思想」  2023.3.19 WEB