拝読した内容を、私の言葉使いでまとめると以下。

 誤読もあると思う。

 

 

 <私>は、世間によって形成される(p94-95 繰り返すがあくまで私の表現で、兼本先生は別の表現をなさっている)

 世間であって、世界ではない(p114-115)

 一方、<私>が形成される前、生きていく上で必須だったもの/ことがあった。

 それは、言葉を覚える前の出来事なので言葉にならず、漠然と何か大事なものとして感じられる(p98-100)

 さらに私たちは生命力をもっているが、言葉のような目の粗いシステムでは零れ落ちる類のもので、これも言葉にならない。

 

 この「何か」を<本当の自分>と名付けてもいいし、肉Cher、elan vitale、デカルト的cogitatioといってもいい(と兼本先生はおっしゃる p 233)

 こうして、<私>が住まう世界のどこか/向こう側に<本当の私>(に関連する何か)があるのではと、私たちは考える(p171-173)

 しかし、それに触れることは原理的にできなくなっている。

 だから<本当の私>を諦めて残骸や断片を代用品として掴み、「これではない。これでもない」と生き続けるしかない(p141-143)

 時にある断片を「これが本物だ」と留まる状態になってしまうことがある(p197)

 それをかつて神経症といっていた。

 

 とはいえ、その「何か」はとても強く、ある種の暴力性をもっているので、うっかり接続すると危険な状態になる(p234-235)

 そこからの離脱方法を兼本先生は御指摘なさっており、私なりの表現なら「私の身体感覚」が鍵になる(p236)

 

 

 一方、近年は世間が世界とほぼ同義になった。

 かつては限られた生活圏の世間様だけが<私>を査定していたのに、SNSの普及で世界中に<私>を評価する世間様が拡散した(p130-133)

 スマホを開けば、勝手に「あなたはOK」と<私>は査定されてしまう。

 世界に奥行はなくなり、「どこか」も「向こう側」もなくなってしまった(p210-214)

 というか、<私>の形成に重要な「あなたはOK」と査定する世間がそこら中に充満したため、「向こう側」を考えなくなった(p167-171)

 

 <本当の私>探しという、実際には不毛なことをしていた時代は、<本当の私>という目標のようなものがあったので、結果として、<私>は意外にぶれなかった(p200)

 

 ところが、常に<私>の形成と関係する世間様に晒されると、<私>の価値は株価のように乱高下する。

 さらに「向こう側」を考えなくなっているので、<私>は奥行きの欠けた世間様の似姿になり、極めて表面的なものになる。

 こうして<私>は、自分の価値がわからなくなり、混乱してゆく。 

 

 

 現在の時代状況によって生まれた、このような「普通」、つまり病とはいえない、とはいえ、本人はつらくなったり混乱したりしている時、どのように生きれば少しでも「楽」になれるか。

 

 

 キーワードは「やってくるモノ」「身体」「動き」かなと思う(p243-244)

 

 

 

 このブログについて考え直している時に読み終わった。

 もともと仕事用の備忘録として書き始めた(気晴らしの感想文もあるが)

 先日も、ある個所を仕事で引用したばかり。

  

 ところが、最近、「いいね」の数を確認している自分に気づいた。

 なので、この機能を使わないことにした。

 私はLineもTwitterもやらないし。

 

  

 

 

兼本浩祐「普通という異常 健常発達という病」 講談社現代新書、東京、2023