こころの現象を「測る」ことができるかどうかは、臨床で大事な問題の一つだ。

 たとえば、うつの程度を評価する尺度がある。

 よくあるのは、「この2週間、毎日のように落ち込んでいる」というような質問に対して、「とてもあてはまる」「あてはまる」「あてはまらない」「まったくあてはまらない」などとして、4点、3点、2点、1点などとする形式だ。

 

 問題は3つ。

 

 この点数のつけ方だと、それぞれの答えは等間隔になっているが、本当にそうなのか。

 実際は幾何級数的間隔で、たとえば、8点、4点、2点、1点とした方が適切かもしれない。あるいは、もっと異なる間隔なのかもしれない。

 

 もう一つは、「落ち込んでいる」を4~1点ではかることと、別の設問、たとえば「罪悪感がある」を同じ4~1点としてよいのかである。

 落ち込むことは誰でもある。一方、理由のない罪悪感を抱くことは、うつらしさという点で重要だと考えると、「落ち込んでいる」の設問の倍の点数、8~2点にした方がいいのかもしれない。

 そもそも、差をつけていいのか、つけるのならどの程度が適切かがわからない。

 

 そうなると合計点の意味もとても曖昧になる。

 合計点を、マニュアル通りに素直に重症度と捉えていいのか、あるいはうつのある症状が突出した状態を意味していると考えるべきなのか、もしくはまったく別のことを意味しているのか、本当のところはわからない。 

 

 

 先日、ある方が、不安と落ち込みでいらした。

 某施設で、あるうつ尺度を質問され、その尺度のマニュアルで「うつ」とされる合計点を超えていたので、「いますぐ専門家にみてもらいなさい。ここではみられない」と言われてしまったのだという。

 ご本人は「確かに少し大変だったから疲れていたし、気持ちがへこむこともあったけど、そんなに大変なのかなと驚いたし、ショックで・・・」とご心配そうだった。

 お話を伺うと、その方は、我々の領域でいう「うつ」ではなかった。

 端的に「疲弊」なさっていただけだった。

 

 この数年、ある領域で、そのようなチェックをすることが勧められるようになり、このような本末転倒を経験することが増えた。 

 こういう場合のうつは「医原性のうつ」とでもいうのだろうか。

 

 

 仕事から帰宅して、早速参加した今回のワークショップでは、測れるものと測れないもの、量と質について、幅広く論じられて勉強になったし、聴講している間に、上記のようなことをぼんやりと考えていた。

 さすがに哲学領域の方々の対話は、素人にはついていけない箇所があり、最後の意見交換で話題になっていた、差異についての侃々諤々の議論は、何が問題になっているのかさえ理解できなかった。

 

 

 とはいえ、いくつか収穫があった。

 精神物理学の祖フェヒナーが、単に計測だけを志向していたわけではなく「物心並行」論者だったこと。

 精神物理学の本来の位置づけを知ることができたこと。

 人間は視覚を量で判別していない可能性を、量に落とし込んだ実験系で検証している認知心理学の結果から推測されること。

 量と質を、拡張extensionと緊張tensionで考え直すことはできないかなどである。

 大変に刺激的だった。

 

 

 恥ずかしながら、20年間も積読状態にしていた、本棚の片隅にあった「時間と自由」「物質と記憶」を、さっそく手元に置きなおした。

 一昨日、職場で読んだミンコフスキーのある論文は、大変に勉強になったのだが、やはりベルクソンを読まないと十分に理解できていないのではないかと、不安になっていたところだった。

 

 しかし、時間をどうひねり出すか、思案中。

 

 

 

Project Bergson in Japan主催 「精神物理学の起源と展望 フェヒナー、ベルクソン、そして・・・・」 

於:福岡大学 2023/1/7