小説集を秋ごろに購入。じっくりと読んで、先日読了。
第二巻は明治40-43年ころの作品が収載されていたが、異色作ばかり。
以前読んだことのある「杯」、それと「木霊」「ル・パルナス・アンビュラン」は、設定は違うけれども、内容は日本の自然主義小説への決別宣言。
しかし、寓話的に描かれている。
「ル・・・」では、ずっと疑問だったことが氷解。
鴎外の小説は横文字を唐突に使う。
しかも、ドイツ語、フランス語、英語、ラテン語と多言語。
読む者を選ぶ小説になっている。
同業者は当然として、鴎外は、どのような読者を想定しているのだろうとずっと思っていた。
読者は男女の学生の外にはあまりない(p184「ル・パルナス・アンビュラン」)
なるほど、当時の書生さんたちを念頭に置いていたらしい。
ちなみに、多少「四角い字が読める」女性(=主人公の/鴎外の奥さん)は、「紅葉や天外」の小説しか読まない(p377 「金毘羅」)と書かれている。
「沈黙の塔」「ファスチエス」は、大逆事件前後に強まった、社会主義文学と自然主義文学への検閲に対する批判をテーマにした寓話的小説。
役人だった鴎外がこのような小説を書くのは、大変な勇気だったに違いない。
ところで、「杯」「木霊」「沈黙の塔」「ル・パルナス・アンビュラン」を読む限り、鴎外は日本の自然主義小説には批判的だったようだ。
「沈黙の塔」で、日本の自然主義文学の特徴を鴎外は、「因習の(消極的)否定」と「性欲方面を書くこと」とまとめている(p409)。
日本人がお手本にしたゾラは、私が読んだ限りで、もっと広い意味での欲望(自己愛、愛情、怨恨、嫉妬、性欲、破壊衝動など)を描いている。
日本の場合、性と道徳の葛藤だけが主眼になっており、鴎外はそれでは物足りないと思っていたのだろう。
そんな自然主義文学といえども検閲までするのは行き過ぎであると鴎外は憤慨し、「沈黙の塔」「ファスチエス」を書いたのだと思う。
明治男の気概はさすがに違う。
「ファスチエス」
注に「Fasces(羅)」とあったのだが、意味が分からず、手元のラテン語辞典(研究社)で調べると、「fascis:執政官が持っていた束稈(そっかん)」とあった。
束稈とは、Wikiによれば権威の象徴であり、束という意味ではファシズムの語源になったという。
図の人物が持っているのが束稈。
本巻収載の作品で私が好きなのは以下。
いずれも小品で、鴎外の作品の中では重要とはいえない類のものかもしれない。
「桟橋」
海外赴任する夫を見送る若い伯爵夫人への共感的な視線。
情景描写だけで寂しさや心細さが伝わってくる。
「電車の窓」
当時の「新しい女性」に対して、古風で、凛とした女性への嘉賞の念。
「牛鍋」
子供を守る母性に対する敬意。
「身上話」
エリスの立場ともいえる芸妓の身上話を聞き、考え込む主人公(=鴎外)。
名作だと思ったのが、初期の短編「そめちがへ」。
ある男を愛し、ある一瞬にかける年増(といっても20代後半)の芸妓。
潔い身の振り方をする彼女は、「シェリ」に出てくるレアのよう。
「行き違い」と「染違い」を重ねるのも、鴎外らしからぬ小粋さ。
森茉莉さんは「雁」以外は「情感がない」とお父さんの作品を評していたが、そんなことはないんじゃないかと思うのは、贔屓目に見すぎだろうか。
作中の兼吉は、言葉は氷だが心情は炎だと、自身の溢れ出る感情を吐露していたけれど。
夏目漱石と同じ問題意識の作品も。
「金毘羅」の主要な筋は、愛娘茉莉が百日咳にかかった際の有名な逸話。
上手に奥さんをサポートしている様が参考になるが(p395-396あたり)、別のことも描いていると思う。
物語の前半で主人公(=鴎外)は「他人の思想の受売をしてゐるのに慊(あきたら)ないやうな心持がする」(p353)と悩んでいる。
一方、彼はもはや日本の伝統、信仰を信じることもできない。
明治期のインテリが抱えていたであろう、そして実は、現在でも通用する戸惑い。
「里芋の芽と不動の目」も同じテーマ。
「己(おれ)なんぞも西洋の学問をした。でも己は不動の目は焼かねえ。ぽつぽつ遣っていくのだ。里芋を選り分けるやうなく工合(ぐあい)に遣っていくのだ」(p179)
西洋の学問も日本の伝統も捨てず、「ぽつぽつ遣っていく」。
これも一つの考え方だろう。
「大発見」は、万事、西洋風であることを茶化した作品で痛快。
切なかったのが「あそび」。
鴎外はなんでも出来過ぎる。
学問も、仕事も、文学も。
何をしても何かが足りない。
自分が心底、真剣に取り組んだ感じがしない。
それは苦労しないですむことのようで、実際には達成感も充実した感覚とも無縁な精神生活を過ごすことだったのではないか。
それゆえの孤独もあっただろう。
凡人の私にはまったく想像もつかない感覚なのだが。
「鴎外近代小説集第二巻」 岩波書店、2012